イスラエルについての覚え書き
国家: ある領土内における正統な暴力の行使を占有する共同体(ウェーバー)
国民(ネイション): 想像上の、有限で、主権を有する政治共同体(アンダーソン)
ナショナリズム: 国家の範囲と国民の範囲が一致すべきであるという政治的な信条(ゲルナー)
この三つの等号が成り立つ限り国民国家の成立と維持には必ず暴力が伴う。なぜなら、あらゆる国家の領土内にはマイノリティが存在し、国民国家を成立させ維持するためにはそうしたマイノリティを暴力的に捨象しなければならないから。その究極的な手段がジェノサイドである。
とりわけアメリカやカナダ、オーストラリア、そしてイスラエルといった入植型の国民国家(元々人が住んでいる土地を奪って建てられた国民国家)の成立と維持は必ずジェノサイドを伴う。その土地に元々住んでいる人々の存在を否定しない限りその土地に国民国家を成立させることはできないから。
もちろんイスラエルとパレスチナに固有の文脈はある。だがジェノサイドが起こっている構図自体は宗教や歴史に頼らずとも上のような一般的な理論で説明できる。だから大局的に見て、イスラエルとパレスチナのどちらが抑圧者であるかは明白であり、それを覆す特有の事情などどこにも存在しない。
なので、次の三つのことが言える。
1. イスラエルは特別な国家ではない。イスラエルは特別に善いわけでも、特別に悪いわけでもない。イスラエルは国民国家であり、他のすべての国民国家と同様に(アメリカのように、ドイツのように、日本のように)ジェノサイドへの契機を秘めている。今イスラエルがジェノサイドを行なっているのはイスラエルに特有の事情があるからではなく、国民国家がジェノサイドへと向かう政治経済的な条件が整ったから。この点を見誤るとイスラエルへの抗議は容易に反ユダヤ主義へと転化してしまう。逆に言えば、本来イスラエルに抗議することは全く反ユダヤ主義的ではない。
2. 固有の文脈を知らない者は口を出すな、というのはジェノサイドを肯定する人の言い分でしかない。歴史をどのように解釈しようとも、人権の存在を認める限り、ジェノサイドを肯定できる理由など存在しない。だから不勉強を理由に声を上げるのを躊躇う必要はない。
3. 敵はイスラエルである。しかし敵はアメリカでもあり、日本でもある。敵はあらゆる国民国家である。仮にパレスチナの人々が今回の事態を生き延びた後国民国家を建設しようとしたら、究極的にはそれすらも自分は否定するだろう。全ての人の人権が実質的に保障されるには、国民国家に代わるような新しい政治共同体をつくる必要がある。それがどのようなものかは自分にも分からない。だけど国民国家に帰属することでしか権利を持つことができない今の世界のあり方が続くのであれば、ジェノサイドはずっと起き続けることは明白である。
イスラエルの人権団体べツェレムによるバイデン大統領への公開書簡
掲題の公開書簡の内容が簡潔にまとまっていてかつイスラエルに対する思想的な立場の如何に関わらず説得的な内容だったので全訳してみます。この内容に賛同できると感じたならばまずは首相官邸および外務省のサイトからイスラエルに停戦するよう働きかけてという旨の意見を送りましょう。できることはやっておくに越したことはありません。
元ツイートはこちらです。https://x.com/btselem/status/1734874006459666894?s=20
以下、拙訳(強調や注は訳者による)
親愛なるバイデン大統領へ
ガザ地区における人道的大惨事について
ハマスがイスラエル市民への恐ろしくそして犯罪的な攻撃-すなわち、イスラエル市民に加え、外国籍の市民や子どもを含む1200人以上の人々を殺害し、さらに250人もの人々をガザ地区に誘拐したこと-を行って以来、ガザ地区における戦争(注1)はもう9週間以上も続いています。攻撃の直後、イスラエルにて行ったスピーチで、あなたはイスラエルの自衛権を明確に支持すると同時に、その行使が国際法の規定、とりわけ戦争のルールに基づいてなされなければならないことを強調しました。
私たちイスラエルの人権団体や市民団体は、この時点において、私たちの政府があなたの助言や他の米国高官による同様の発言を無視することを選択したと誠に遺憾ながら明言しなければなりません。この書簡は、イスラエルによる戦時下の国際人道法への違反についての重大な疑惑についてのものではなく、あくまでガザにおいて拡大している極めて深刻な人道的危機と、この事象に対するイスラエルの政策を変えさせる喫緊の必要性を主題としています。(注2)
戦争が始まって以来、イスラエルの政策はガザにおける人道的危機を大惨事という局面まで推し進めてきました。そして、このことは戦争の必然的な帰結というだけではありません。この政策の一環として、戦闘が始まってからほどなくして、イスラエルはガザへの電気と水の販売を停止し、国境を封鎖し、あらゆる食料、水、燃料、医薬品の入国を阻みました。その後、ガザの南側への水の供給を部分的に再開しましたが、電気なくしては、住民の大多数が安全な飲み水を手に入れられません。10月21日以降、イスラエルはラファフ検問所において支援物資と少量の燃料の部分的な入国を可能にしたものの、これは絶え間ない爆撃-その犠牲者はガザ保健省によると18000人にのぼり、その多くは子どもと女性です-に晒されている住民の増大するニーズを満たすには遠く及びません。
ハマスが人質をイスラエルへと解放することは肝要です。しかし、人道的支援物資のガザへの流入を許可することは、イスラエルにとって良心的な行為ではなく、義務の一つです。国際人道法の定めるところによれば、武力紛争下の住民が入手可能な物資だけでは生存できない場合、紛争当事国は食料と医薬品を含む人道的支援物資の早急で阻害されない流通を可能にする積極的義務があります。この義務は、支援物資を必要とする住民が相手国側にいたとしても発生するものであり、支援物資の流通を円滑にするため、もしくはより容易にするために重要な地理的位置にある国家が負うものです。この責務を履行しないことは戦争犯罪にあたります。
国連機関や人道団体は、ガザの状況が凄惨であり、住民たちを助ける手段はほぼ尽くされていると報告しています。通行が許可されているトラック数台分の物資-報告によれば、大海の一滴に過ぎません-も、イスラエルによる継続的な爆撃、インフラの破壊、そして地区全体の封鎖によって配布することが不可能となっています。これにより、200万人以上の人々が飢え、渇き、適切な医療的ケアにアクセスできず、水不足や不衛生的な人の過多による感染症の拡大に晒されています。この想像を絶する現実は日に日に悪化しています。
あなたには、イスラエルの法的な義務とガザ地区の住民のニーズに基づき、政策を転換し、ガザへの人道的支援物資の流入を可能にするよう、私たちの政府に働きかける力があります。ガザにおける支援物資の配布、および必要な物資の量に関する決定を行うべきなのは、イスラエルではなく、現場にいる国連機関と人道団体です。ケレム=シャローム検問所を開放し、人道的支援物資の継続的で制限なき通行を可能にすることの緊急性は疑いようもありません。
私たちは危機の最後の局面にいます。まだ多くの命が失われることを阻止できます。イスラエルは今すぐに政策を転換しなくてはなりません。(注3)
心を込めて
(各団体による署名)
(注1)訳者の立場によればイスラエルが行っているのは戦争ではなく一方的なジェノサイドであり民族浄化です。ここでべツェレムがこの事象を「戦争」と呼んでいるのは、バイデンを含むイスラエルの政策の支持者に対する戦略的な譲歩と思われます。すなわち、「仮にこれが戦争だとしても、戦争においてもやっていいこととダメなことがあり、イスラエルはダメなことをしている」という論法です。
(注2)イスラエルが行っていることが戦争だとしても、本来であればイスラエルによる戦時下の国際法違反(例えば、非戦闘員を巻き込んだ無差別な爆撃やジャーナリストの殺害など)も俎上に上げるべきです。ここでべツェレムがあえてそうしなかったのは、またしても戦略的判断であり、この論法によってバイデン大統領とその支持者を説得するのが困難だと判断したからだと思われます。なぜなら、イスラエル側はこうした国際法違反をハマスによるプロパガンダだと否定したり、戦争に犠牲は付き物だと開き直ったりすることができ、バイデンとその支持者もそれに賛同することが予見されるからです。一方で、イスラエルがガザ地区を封鎖し、支援物資の流入を防いでいることはイスラエル自身も認めています。そのこと自体が戦争犯罪に値すると指摘することは、イスラエルの政策の非人道性を明らかにする上で効果的と言えます。
(注3)訳者の立場によれば、イスラエルは支援物資の流入を可能にするだけでなく、ただちにあらゆる破壊行為を停止し、ガザ地区の封鎖を解除し、ガザ地区および西岸地区における入植をやめ、占領しているすべての土地をパレスチナに返還し、パレスチナ人に対するアパルトヘイトを撤廃する道義的義務があります。
死のうとも思ったけどやめた
ジェノサイドを未然に防ぐことは人道の最も基本的で最低限の要求のはずだがそれすらも叶わないこの世界の暗澹たる現状を目の前にすると死んだ方がましじゃないかという気持ちになる。認知行動療法の一環としてなぜそうなるのかを考えてみた。確かに自分が死ぬこととイスラエルによるジェノサイドの間には直接的な因果関係は何もない。自分が首を吊ったところでガザの上に降る爆弾が止むわけでもなければイスラエルによるパレスチナの占領と植民が終わるわけでもない。だから粉々になったガザの人々の身体を想像して自分が死にたくなるのはナンセンスである。
でも本当にそうなのか?日本はイスラエルに人道目的の一時的休戦を求めてはいるが国連の休戦決議案の採択では棄権した。アメリカを筆頭とする西側諸国と同じく基本的にはイスラエル支持の立場であると見て良いだろう。少なくとも建前上は民主主義国家に住んでいるのでこの外交姿勢の責任の一端は主権者であり有権者である私にあるしそれゆえに反対の声を挙げる義務がある。だが反対すると言っても次の国政選挙はいつになるか分からないしその頃にはもう手遅れだ、というか今すでに手遅れになっている。デモに行くのも良いがデモは意思表示でしかなく為政者を従わせる強制力はない。いっそのことジェノサイドに抗議するために自殺してしまった方が話題性があって良いのではないか。
それに、自分にはグローバル資本主義社会における消費者としてイスラエルによるパレスチナの占領に加担してきた責任もある。これまで食べてきたビッグマックや飲んできたスターバックスラテのために払ったお金は巡り巡ってイスラエルの暴虐を支えてきた。生きている限り消費せねばならずその消費が誰かを踏みつけることになるこのシステムに抗しそれから脱却するためには死ぬのも一つの手なのではないか。
死は確かに抗議の手段となりうる。ならば、生きること、今生きていることを正当化するには死ぬことよりも生きて抗議する方が良いことを示さなければならない。幸いにしてそれは不可能ではないと思う。
なぜならば、何よりも、自分一人が死ぬことが持つ抗議としての効果は限りなく小さいからである。家族や友達は悲しんでくれるだろうが、日本の外交政策には何の影響もないと思われる。遺書に「イスラエルによるジェノサイドに抗議するために死にます」と書いたところで、多分ニュースにはならないだろうし、なったとしてもヤフコメでバカにされるのが関の山だろう。結局自分の死にそこまでの戦略的価値はないのだ。
ただ、自分が死んだところで大した抗議にはならないからと言って、ただちに自分は生きていて良いことにはならないだろう。生きることを正当化するためには、生きて抗議することが死ぬことで抗議するよりも価値があることを証明しなければならない。そして有効に抗議することはこれまで見てきたように非常に困難である。
結局のところ、生きていて良いのか、それとも死んだ方が良いのかは分からない。ジェノサイドを止めるために何もできない自分なんて死んだ方がましなのではないかとは思うものの、死んだところであんまり意味はないので死なないでおこうとも思う。生きるための積極的な理由を見出すためには抗議し続けるしかないのだろう。でもその抗議が効果的な抗議でなければ生きていても死んでいても変わらないし、むしろ死んだ方がましなのだろう。だから文字通り死ぬ気で抗議する必要があるのだろう。
自分は生きたいと思う。でもガザの人々だって生きていたかっただろうし、ガザの人々が爆撃されて良い道理なんてどこにもないと思うし、ガザの人々が殺されているのにも関わらず平然と生きる権利など自分にはないと思う。これは仕方のないことではないし、これがこの世の現実なのだとしたら自分はそれを拒絶する。そして死によって拒絶することが無意味であるなら命をかけて拒絶しようと思う。
2023/2/15・16 ペイヴメント東京公演
・2日目オープニングアクトのミツメが非常に良かった。ドラムがうますぎる。一番好きなDiscoで始まったのも良かった。睡魔めっちゃいい曲、でもさすがに最終盤でいきなりギターデカくなりすぎでしょ何が睡魔だよと思った。
・ミツメとペイヴメントの対比が良かった。ミツメは演奏がとにかく隙がなくタイト。曲も丁寧に丁寧に、細部に至るまで意図を持って構築されている印象。ペイヴメントは曲の土台だけ盤石で、アレンジや演奏は自由演技という感じ。事故的な要素も許容する懐の広さと外に広がっていく風通しの良さがある。マルクマスは何回か(一発目のCut Your Hairからそうだった)ギターに気持ちが入りすぎて歌い出しが遅れる場面があったけど、あれを川辺さんがやったら会場はドン引きだと思う。ペイヴメントだから許される不思議(いい意味で)。ひねくれていると形容されがちだけど根底にあるのはおおらかさと優しさな気がする。
・両日ともにセットリストが良すぎた。1日目はPerfume-V、Lions (Linden)、The Hexx、Fight This Generation、Kennel Districtが予想外で嬉しかった。2日目はリクエストしたFrontwardsとFillmore Jiveをどっちもやってくれて感動。Father To A Sister Of Thoughtは名曲、アンコールのラストがFinでやられた。F始まりの曲多すぎ
・Box Elderがいい曲すぎて信じられない。あれが最初期の曲ってどういうことですか??おれもバンド始めようとか言ってあんな曲書きてーーー
・ずっとAT&Tやれっつってる人がいて、Spiral Stairsが「次はAT&Tの初期のバージョンをやります」とか言って結局Summer Babeやったのウケた。
・東京ドームシティホールは水道橋駅からのアクセスが圧倒的に良すぎる。逆に後楽園は遠すぎ
・サポートのRebecca Coleって人大活躍だった。Spit On A Stranger のイントロの変な音とかWe DanceやType Slowlyのピアノとか、押さえて欲しいディテールを全部押さえてくれてた。
・Range Lifeはやっぱり大名曲だった。間奏のギターが良すぎる。
・マルクマスギターうますぎ。あんな風に歌うように弾けたらめちゃくちゃ楽しいんだろうなと思う。というか歌うようなつもりで弾いてるから歌い出しが遅れるのかなと邪推する。
Allo Darlin’の活動再開に寄せて
Allo Darlin'はロンドンを拠点とするインディー・ポップ・バンドである。2009年にセルフタイトルのデビューアルバムを発表した後、2012年と2014年にもアルバムをリリースしたが、2016年末に解散してしまった。しかし、つい先日、バンドのTwitterアカウントでバンドの再結成が発表され、ロンドンで数回ライブを行うことが告知されるとともに、新たに楽曲制作を行うことも示唆された。
このニュースを聞いて、私が思うことはただ一つ。もっと多くの人に、Allo Darlin'を知ってほしい。
月並みな表現だが、Allo Darlin'の音楽は癒しなのだ。それだけ聞くと「ケッ」と思う人もいるだろう。私もそうだ。「私たちの曲を聴いて癒されていただければと思います」という旨のことを言っているバンドを見る度に虫唾が走る。ポップスごときで人の苦しみが癒えると思ってんのか、思い上がるにもほどがあるだろ、と思う。
それでも人は癒しを必要とするものだ。長い1日の後はお風呂に入りたくなるし、気が張り詰めている時は紅茶を飲めば落ち着くし、もうダメだと思った時はふかふかの布団に飛び込みたくなる。そんなお風呂や紅茶や布団のように、Allo Darlin'の音は温かいのだ。大袈裟ではなく、恩着せがましくもなく、こちらを理解した風でもない。ただそこにあって、一時の温かさをもたらしてくれるのだ。
その温かさの大部分は、ボーカルのエリザベス・モーリスの歌声とウクレレの音色から来ているように思う。モーリスの声域はおそらくアルトで、高低の幅はそこまで広くないように思われるが、その分中音域における表現力が非常に高い。彼女の微妙に霞がかったような独特の声質と、歌詞の一音一音の発音の丁寧さと相まって、歌うというよりも語りかけるという表現が似合う。
また、彼女はウクレレでコードを鳴らしながら歌うのだが、このウクレレの音色が表面的には南国の太陽のような明るさを想起させるものの、よくよく聞くと空虚で物悲しい響きも含まれており、Allo Darlin'の音に絶妙な両義性をもたらしている。曲はメジャーキーのものがほとんどだが、ただ明るいだけではないところがサウンドの温かみを一層引き立てている。
Allo Darlin'は歌詞も素晴らしいのである。モーリスの書く詞は、人生の辛さ、悲しさ、やるせなさを正面に見据えつつ、それでも優しさや希望を抱かせてくれる。人生とは生きるに値するし、生きるに値する人生を送ることは可能なのだと思わせてくれるのだ。
活動再開に際してTwitterで発表された文章にも、そんなAllo Darlin'のエートスが詰まっているように思う。以下、原文からの抜粋と筆者による訳を記してみる。
In the years we were active as a band, the musical landscape changed, and we got older too. It was hard, if not impossible to make a living from music, at least the type of music we made. This is even more true today. But Allo Darlin’ was never about being successful. This year, 2023, Allo Darlin’ are going to reunite for some shows in England. We hope to make some more music together too. Life is too short to not do the things you love, to do the things that make life worth living. That goes for you too.
バンドとして活動していた数年間の中で、音楽界の様相も変わり、私たちも年を重ねました。音楽で生計を立てることー少なくとも、私たちが作るような音楽でーは、非常に困難か、あるいは不可能でした。このことは今、より真実味を増しています。でもAllo Darlin'は成功を収めるために結成されたわけではありません。今年、2023年に、Allo Darlin'はロンドンで数回ライブを行うために再結成します。また、楽曲の制作も再開できたらと思っています。自分の愛すること、生きていて良かったと思えることをやらずにいるには、人生はあまりにも短すぎるのです。それは、皆さんにも当てはまることです。
Allo Darlin'の活動再開は、単に「いいバンドが活動再開した、良かったね」という話ではない。それは、困難な状況に立ち向かいながら、なおも自分の愛することをし続けるために立ち上がった大人たちがいる証なのだ。そしてそれは自分たちにもできるかもしれないと思わせてくれる希望の狼煙なのだ。
Allo Darlin'の傑作アルバム「Europe」のタイトル曲に、こんな歌詞がある。
This is life/This is living
これが人生/これが生きるということ
手放しで前向きな歌詞というわけではない。むしろ、聴く人やその時の気分によっていかようにも変わるだろう。嫌なことがあったときや、何かを諦めざるを得なくなった時も、それが人生であり、それこそが生きるということだと言える。でも、今日はAllo Darlin'の活動再開を受けて、自信をもって言える。生きていて良かったと思えるような何かをすること、それが人生であり、それこそが生きるということだ、と。
翻訳家になります。ならせてください!
仕事は結構つまんない、けど辞めたらお金のことが心配、なんなら今でももっとお金欲しい、そんな時は副業をした方がいいらしい。そして何かを始める時は「自分のやりたいこと」「自分のできること」「世の中から求められていること」のベン図を書いて真ん中に来たものをやるといいって稼いでそうな人が言ってたのでやってみた。
「自分のやりたいこと」
→なんか文化的なこと
「自分のできること」
→英語
「世の中から求められていること」
→え〜分かんない。経済システムの根本的な見直しは不可欠だと思うけど、、、
ということで三つ目の円だけクソデカくなってしまいましたがとにかく英語を使って何か文化的なことがしたいということが分かった。そこで私は大学生の時友達の卒業論文の英文抄訳を代わりに作成して小銭を稼いでいたことを思い出した。これなら自分も楽しくできるし人の役に立ってる感もあっていいなと思ったので翻訳家を目指すことにした。
それにあたり、まず自分の実力を知りたいと思い、文芸翻訳検定なる試験を受けることにした。職業翻訳家向けの時間は他にも色々あったが、自分のやりたいジャンルに一番近いと思って選んだ。1級に合格するとプロレベルの英日翻訳者として認められるとの触れ込みだったが、初めて受ける場合は2級からしか受けられなかったので、昨年の6月くらいに2級を受けて無事合格し、1級への挑戦権をゲトった。
1級の問題はめちゃ面白くて、長文(3000単語くらいだったかな)の英文翻訳と、2000〜3000じの和文の短編小説の二つの課題を3日間かけてやってくださいというものだった。長文の英文翻訳は自分的にはサクサクできたが、短編小説の方はストーリーのライティングの経験があまりにも無さすぎてクッソ苦労した(でも文芸翻訳やるならできて当然ですよね、、、これからがんばります)。ところが試験の結果とともに届いた講評を読むと短編小説のほうが評価が高く、長文翻訳は細かいミスが目立っていた。嬉しいやら悲しいやら、、、
で、肝心の結果は1級B合格だった。どういうことかというと、1級にはA合格とB合格の2種類があって、A合格は文句なしのプロレベル、B合格はもう一歩ということらしい。悔しいけどそれでも合格は合格なのでひとまず良かったと思っている。そして文芸翻訳検定協会の方々がまじでマブいのでB合格にも関わらず自分の名前をウェブサイトの認定翻訳家一覧に載せていただいた。うれぴ〜
https://bungeihonyaku.com/tourokusya.html
というわけでプロレベルには一歩及ばないものの頑張ってる翻訳家に仕事を頼みたい人がいたらどなたでもご連絡ください。ビジネスでも小説でも詩でも取扱説明書とかでもなんでも頑張ります。日→英、英→日どっちもいけます。文芸翻訳検定の方もまた今年の5月にあるそうなので今度はA合格してえ
あけましておめでとうございます!最初に言え
遠くには四匹の犬
Silver JewsのThe Wild Kindnessという曲がある。晩秋にぴったりの曲だと思うので、もっと多くの人に聴いてほしい。そしてSilver Jewsのことももっと知ってほしい。
Silver Jews - The Wild Kindness - YouTube
Silver Jewsの作詞作曲を行っていたのはデイビッド・バーマンという人だった。バーマンがバンドを始めた理由は、父親との確執だった。
父親のリチャード・バーマンはアメリカで有数のPR活動家・ロビイストで、飲食業界を中心とする大企業の利益を守るために、市民と労働者の主張・運動を不当に貶めることを生業とする人物だ。彼の手がけたメディア・キャンペーンには、最低賃金の引き上げ反対や、飲酒運転の厳罰化への反対、また労働組合へのネガティブキャンペーン等がある。そんな父親が世界に対して与えた損害を少しでも回復できるように、とバーマンが結成したのがSilver Jewsというバンドだ。
では果たしてその試みはどうなったのか。Silver Jewsは知る人ぞ知るとても良いバンドだったものの、決して有名になることもないまま、とうの昔に解散した。バーマン本人はその後、鬱病に苛まれながらも活動していたが、一昨年に自殺してしまった。一方で、バーマンの父親は今も健在で、様々な労働組合や運動体への攻撃を続けている。表面的な事実だけを見れば、結果は散々である。
それでも私は、Silver Jewsとデイビッド・バーマンは奇跡をやってのけたのだと思う。まず、バーマンがアーティストになったこと自体が驚くべきことだろう。彼も父親のように、巨大な利権にひたすら擦り寄る人になっていてもおかしくはなかった。なんなら、そのほうが本人も長生きできただろうし、より多くの富と名声を得ることができただろう。それでもバーマンが弾圧と搾取ではなく創作の道を選んだことは奇跡だと言える。ましてそこで才能を開花させるなど、限りなく不可能に近い所業だと思う。それをバーマンはやってのけたのだ。
何より、バーマンの残した功績は、父親の仕事とは比べられないほど尊いものだ。バーマンの創った作品は彼の死後も輝きを失っていないし、これからも多くの人々に喜びをもたらすだろう。でもバーマンの父親の仕事は何も生み出さず、ただ壊し、奪うだけだ。彼が死んだ後残るのは、息子に相続されることのない遺産と、彼が傷つけてきた人々の膨大な痛みだけである。
もちろん、その痛みの総量に比べればバーマンの業績は小さい。しかし、どんなに小さいものであれ、誰かに喜びをもたらした時点で、バーマンの仕事は父親のそれよりもよっぽど価値がある。バーマンがそのことをもっとちゃんと分かっていたならば、死ななくても済んだかもしれない、と思う。
芸術は尊い、ということにあぐらをかいて、社会と政治に背を向けて生きることは醜い。だからといって、今の社会と政治のおぞましさに絶望するあまり、創ることどころか、存在すること自体をやめてしまっても、多くの悲しみを残すだけだと思う。生産せよ、消費せよ、資本家の利潤のために貢献せよとせっつかれる今の世において、あくまで感情を動かす何かを創るために活動すること自体、ある種の反抗になり得ると信じている。
バーマンは決してパンクスではなかったけど、やはりこの意味では反抗者だったと思う。だから自分もバーマンに救われた一人として、何らかの形でバーマンの営みを引き継ぎたいと思う。自分と自分の大切な人たちが生きるこの社会を少しでも良くするために、そしてバーマンの無念を晴らすために。
The Wild Kindnessの歌詞には、バーマンの抱えた生きづらさ、やけくそのユーモア、そしてくたびれた優しさが良く表れていると思う。日本語に訳すことで、その大部分は失われてしまう。それでもバーマンの詞が持つ美しさがほんの一部分でも残り、読んだ人がそこから詞の本来の姿を想起できればと思い、ダメ元で日本語を充ててみた。よかったら読んでみてください。
The Wild Kindness
I wrote a letter to a wildflower
on a classic nitrogen afternoon
Some power that hardly looked like power
said, "I'm perfect in an empty room"
野花に向けて手紙を書いた
典型的な窒素の午後に
力に到底見えないような何かの力が
「おれは空っぽの部屋に完璧だ」と言った
Four dogs in the distance
each stands for a kindness
Bluebirds lodged in an evergreen altar...
I'm gonna shine out in the wild silence
and spurn the sin of giving in
遠くには四匹の犬
それぞれあるやさしさを表している
常葉の祭壇に埋もれたルリツグミ
僕は野生の静けさの中で輝きを放って
諦めという罪を突っぱねよう
Oil paintings of x-rated picnics
Behind the walls of medication I'm free
Every leaf in a compact mirror
hits a target that we can't see
X指定のピクニックを描いた油絵
薬の壁の裏で、僕は自由だ
サイドミラーに映る全ての木の葉は
自分たちには見えない的に命中する
Grass grows in the icebox
The year ends in the next room
It is autumn and my camouflage is dying
instead of time there will be lateness
and let forever be delayed
クーラーボックスには芝生が生え
一年は隣の部屋で終わる
今は秋 僕の擬態は死にゆく
時間の代わりに間に合わなさが来るだろう
そして永遠は遅延させておこう
I dyed my hair in a motel void
met the coroner at the Dreamgate Frontier
He took my hand and said "I'll help you boy
if you really want to disappear"
モーテルの虚空で髪を染めて
夢の門の辺境で検視官と会った
彼は僕の手を取り言った「助けてやろう、坊主
本当に消えたいのならな」
Four dogs in the distance
each stands for a silence
Bluebirds lodged in an evergreen altar...
I'm gonna shine out in the wild kindness
and hold the world to its word
遠くには四匹の犬
それぞれあるやさしさを表している
常葉の祭壇に埋もれたルリツグミ
僕は野生のやさしさの中で輝きを放って
世界に約束を守らせよう