この世界の平和を本気で願ってるブログ

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ジェノサイドを前にして人間たらんとすること

アドルノ曰くアウシュヴィッツの後に詩を書くことは野蛮である。ではガザの最中にブログを書くことは何なのだろう。

 

そもそもアウシュヴィッツの後に詩を書くことの何が野蛮なのだろう。詩を通してホロコーストの記憶を継承すること、非人間化されたユダヤ人、ロマ人、性的少数者障がい者の人々の人間性を改めて想起させること、そしてこれらのことを通じてホロコーストを二度と起こさせないようにすることは意義ある試みではないのだろうか。

 

だがその試みはどこまで実現可能なのだろうか。ジェノサイドを繰り返さないためにはジェノサイドを準備する社会経済的な構造を取り払う必要がある。だが西洋中心主義、植民地主義、資本主義、ナショナリズム、人種主義、排外主義は衰退するどころか日々より強固になっていく。そしてジェノサイドは繰り返され今も続いているーコンゴで、ミャンマーで、新疆ウイグル自治区で、スーダンで、そしてガザで。この圧倒的な現実を前にして詩はあまりにも非力である。それにも関わらず詩を書こうとするのは非倫理的である、というのがアドルノの言い分なのかもしれない。

 

ではなぜアドルノは「野蛮」という言葉を用いたのだろう。野蛮というとき、想起される対概念は文化や文明、つまり人間による作為的な「進歩」だろう。だがこれこそアドルノが唾棄する啓蒙主義的な発想の極みなのではないか。圧倒的な不正義を前にして詩を書くことの非力さ、無意味さを「野蛮」と評するとき、アドルノは自ら批判の対象とした野蛮と文明、感性と理性の二項対立に陥っているのではないか。詩を書くことが「野蛮」であったとして、アウシュヴィッツを経た人類がとるべき真の「文明的な」態度とはいかなるものか。

 

そもそも啓蒙主義ホロコーストの究極的な原因であると喝破したのはアドルノだ。(無論、アメリカやヨーロッパによるアフリカや南アフリカ大陸での行いを見ていれば、彼はより容易に啓蒙主義とジェノサイドの因果関係に辿り着けたであろう。)「野蛮さ」を「理性」によって超克すべき対象として認識するとき、私たちはすでにジェノサイドの種を蒔いているのだとしたら、私たちは人間が野蛮でもあり理性的でもあるという認識から出発しなければならないだろう。そして野蛮であると開き直るわけでもなく、かと言って理性を過信せず、その両端の間で揺れ動くことに耐えなければならないのだろう。

 

人間および人間性とその究極的な否定であるジェノサイドについて考えるとき、想起される文章がもう一つある。岡真理は『アラブ、祈りとしての文学』(2008)の冒頭において、当時から既に絶望的と形容すべきパレスチナの状況を前にして文学の意義を問うている。その中で、彼女はある青年との会話の中で、残酷にもなぜ彼が生への希望を捨て、自爆テロという手段をもってせめてもの抵抗を示し自尊を回復しようとしないのかを問う場面がある。未だ希望はある、と青年が答えると、岡は果たしてどこにあるのかと問い返す。すると青年は悩んだ末にこう答える。どこにあるかは分からないが、希望はあると。

 

岡は序文において、希望がパレスチナ人にとって根拠のあるものというよりは無根拠的な祈りのようなものであり、そうした希望を持ち続けるための魂の滋養を提供することこそが文学の意義であると主張する。この主張それ自体は賛否はともかくとして感動的なものだと思う。私が引っかかるのは、岡が先ほどの青年の希望を捨てない生き様について、しきりに「人間の側に踏みとどまる」といった表現で形容していることである。

 

パレスチナの絶望的な状況においてなお希望を捨てずに気高く生きることはもちろん称揚すべきである。しかしそれを「人間の側に踏みとどまる」と形容するとき、岡は自爆テロを含む武力闘争を「非人間的」であると暗示してしまってはいないだろうか。そしてそれはそのままハマス、ひいてはパレスチナ人を指して「人間動物」と呼称したイスラエルの指導者たちの論理に乗ってしまっていないだろうか。

 

もちろん暴力は忌避されるべきである。しかしそれは一般論であり、あらゆる暴力を一元的に否定することは「誰が」「どのような理由で」「誰に」暴力を行使しているかを不可視のものにする。岡自身も再三にわたって指摘している通り、イスラエルによる不当な占領がなければハマスも存在しない。ハマスは何よりも反植民地の抵抗勢力である。だからといってハマスの行いの全てが正当化されるわけではもちろんないが、こうした背景を無視した安易な暴力批判は、現実政治においてはイスラエル植民地主義を肯定する機能しか持ちえない。

 

暴力による抵抗は非人間的なのだろうか。私にはむしろそれは人間的に見える。自爆テロこそ人間性の極みであろう。他の動物と人間を分つもの、それは自死を選びうる能力であり、自己や種の生存よりも大きな目的ー正義、公正、平等ーのために殉じる能力である。

 

しかし、暴力による抵抗が人間的なのであれば、暴力による収奪もまた人間的だろう。この意味で、ジェノサイドは人間性の究極的な否定であると同時に、その究極的な発現でもあると形容するのが正しいだろう。ジェノサイドを積極的に推進する人々も、それを傍観=加担する私たちも、非人間的なのではなくあまりにも人間的なのだ。人間性や人の道など、そもそも大それた尊いものなどではないのだ。結局のところ人権概念が空虚で恣意的なものにしかなりえていないのも、人間が人間であるということそのものに特に倫理性などないからである。人間ははなから非倫理的、いや亜倫理的(amoral)な存在なのだ。

 

ガザの最中にブログを書くこと、それは野蛮どころか、あまりに人間的な営みである。私はこうしてブログを書き終え、就寝し、明日また目覚め、向精神薬を飲んでぬくぬくと精神の回復を待つ。その間もガザの地面は瓦礫と人間の臓物で覆い尽くされる。なんと人間的な状況だろう。人間として生まれてしまった全ての人が、来世は別の生き物になれますように。もしくは、来世など存在しませんように。