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ジェノサイドを前にして人間たらんとすること

アドルノ曰くアウシュヴィッツの後に詩を書くことは野蛮である。ではガザの最中にブログを書くことは何なのだろう。

 

そもそもアウシュヴィッツの後に詩を書くことの何が野蛮なのだろう。詩を通してホロコーストの記憶を継承すること、非人間化されたユダヤ人、ロマ人、性的少数者障がい者の人々の人間性を改めて想起させること、そしてこれらのことを通じてホロコーストを二度と起こさせないようにすることは意義ある試みではないのだろうか。

 

だがその試みはどこまで実現可能なのだろうか。ジェノサイドを繰り返さないためにはジェノサイドを準備する社会経済的な構造を取り払う必要がある。だが西洋中心主義、植民地主義、資本主義、ナショナリズム、人種主義、排外主義は衰退するどころか日々より強固になっていく。そしてジェノサイドは繰り返され今も続いているーコンゴで、ミャンマーで、新疆ウイグル自治区で、スーダンで、そしてガザで。この圧倒的な現実を前にして詩はあまりにも非力である。それにも関わらず詩を書こうとするのは非倫理的である、というのがアドルノの言い分なのかもしれない。

 

ではなぜアドルノは「野蛮」という言葉を用いたのだろう。野蛮というとき、想起される対概念は文化や文明、つまり人間による作為的な「進歩」だろう。だがこれこそアドルノが唾棄する啓蒙主義的な発想の極みなのではないか。圧倒的な不正義を前にして詩を書くことの非力さ、無意味さを「野蛮」と評するとき、アドルノは自ら批判の対象とした野蛮と文明、感性と理性の二項対立に陥っているのではないか。詩を書くことが「野蛮」であったとして、アウシュヴィッツを経た人類がとるべき真の「文明的な」態度とはいかなるものか。

 

そもそも啓蒙主義ホロコーストの究極的な原因であると喝破したのはアドルノだ。(無論、アメリカやヨーロッパによるアフリカや南アフリカ大陸での行いを見ていれば、彼はより容易に啓蒙主義とジェノサイドの因果関係に辿り着けたであろう。)「野蛮さ」を「理性」によって超克すべき対象として認識するとき、私たちはすでにジェノサイドの種を蒔いているのだとしたら、私たちは人間が野蛮でもあり理性的でもあるという認識から出発しなければならないだろう。そして野蛮であると開き直るわけでもなく、かと言って理性を過信せず、その両端の間で揺れ動くことに耐えなければならないのだろう。

 

人間および人間性とその究極的な否定であるジェノサイドについて考えるとき、想起される文章がもう一つある。岡真理は『アラブ、祈りとしての文学』(2008)の冒頭において、当時から既に絶望的と形容すべきパレスチナの状況を前にして文学の意義を問うている。その中で、彼女はある青年との会話の中で、残酷にもなぜ彼が生への希望を捨て、自爆テロという手段をもってせめてもの抵抗を示し自尊を回復しようとしないのかを問う場面がある。未だ希望はある、と青年が答えると、岡は果たしてどこにあるのかと問い返す。すると青年は悩んだ末にこう答える。どこにあるかは分からないが、希望はあると。

 

岡は序文において、希望がパレスチナ人にとって根拠のあるものというよりは無根拠的な祈りのようなものであり、そうした希望を持ち続けるための魂の滋養を提供することこそが文学の意義であると主張する。この主張それ自体は賛否はともかくとして感動的なものだと思う。私が引っかかるのは、岡が先ほどの青年の希望を捨てない生き様について、しきりに「人間の側に踏みとどまる」といった表現で形容していることである。

 

パレスチナの絶望的な状況においてなお希望を捨てずに気高く生きることはもちろん称揚すべきである。しかしそれを「人間の側に踏みとどまる」と形容するとき、岡は自爆テロを含む武力闘争を「非人間的」であると暗示してしまってはいないだろうか。そしてそれはそのままハマス、ひいてはパレスチナ人を指して「人間動物」と呼称したイスラエルの指導者たちの論理に乗ってしまっていないだろうか。

 

もちろん暴力は忌避されるべきである。しかしそれは一般論であり、あらゆる暴力を一元的に否定することは「誰が」「どのような理由で」「誰に」暴力を行使しているかを不可視のものにする。岡自身も再三にわたって指摘している通り、イスラエルによる不当な占領がなければハマスも存在しない。ハマスは何よりも反植民地の抵抗勢力である。だからといってハマスの行いの全てが正当化されるわけではもちろんないが、こうした背景を無視した安易な暴力批判は、現実政治においてはイスラエル植民地主義を肯定する機能しか持ちえない。

 

暴力による抵抗は非人間的なのだろうか。私にはむしろそれは人間的に見える。自爆テロこそ人間性の極みであろう。他の動物と人間を分つもの、それは自死を選びうる能力であり、自己や種の生存よりも大きな目的ー正義、公正、平等ーのために殉じる能力である。

 

しかし、暴力による抵抗が人間的なのであれば、暴力による収奪もまた人間的だろう。この意味で、ジェノサイドは人間性の究極的な否定であると同時に、その究極的な発現でもあると形容するのが正しいだろう。ジェノサイドを積極的に推進する人々も、それを傍観=加担する私たちも、非人間的なのではなくあまりにも人間的なのだ。人間性や人の道など、そもそも大それた尊いものなどではないのだ。結局のところ人権概念が空虚で恣意的なものにしかなりえていないのも、人間が人間であるということそのものに特に倫理性などないからである。人間ははなから非倫理的、いや亜倫理的(amoral)な存在なのだ。

 

ガザの最中にブログを書くこと、それは野蛮どころか、あまりに人間的な営みである。私はこうしてブログを書き終え、就寝し、明日また目覚め、向精神薬を飲んでぬくぬくと精神の回復を待つ。その間もガザの地面は瓦礫と人間の臓物で覆い尽くされる。なんと人間的な状況だろう。人間として生まれてしまった全ての人が、来世は別の生き物になれますように。もしくは、来世など存在しませんように。

 

 

 

 

イスラエルについての覚え書き

国家: ある領土内における正統な暴力の行使を占有する共同体(ウェーバー)

 

国民(ネイション): 想像上の、有限で、主権を有する政治共同体(アンダーソン)

 

ナショナリズム: 国家の範囲と国民の範囲が一致すべきであるという政治的な信条(ゲルナー)

 

この三つの等号が成り立つ限り国民国家の成立と維持には必ず暴力が伴う。なぜなら、あらゆる国家の領土内にはマイノリティが存在し、国民国家を成立させ維持するためにはそうしたマイノリティを暴力的に捨象しなければならないから。その究極的な手段がジェノサイドである。

 

とりわけアメリカやカナダ、オーストラリア、そしてイスラエルといった入植型の国民国家(元々人が住んでいる土地を奪って建てられた国民国家)の成立と維持は必ずジェノサイドを伴う。その土地に元々住んでいる人々の存在を否定しない限りその土地に国民国家を成立させることはできないから。

 

もちろんイスラエルパレスチナに固有の文脈はある。だがジェノサイドが起こっている構図自体は宗教や歴史に頼らずとも上のような一般的な理論で説明できる。だから大局的に見て、イスラエルパレスチナのどちらが抑圧者であるかは明白であり、それを覆す特有の事情などどこにも存在しない。

 

なので、次の三つのことが言える。

 

1. イスラエルは特別な国家ではない。イスラエルは特別に善いわけでも、特別に悪いわけでもない。イスラエル国民国家であり、他のすべての国民国家と同様に(アメリカのように、ドイツのように、日本のように)ジェノサイドへの契機を秘めている。今イスラエルがジェノサイドを行なっているのはイスラエルに特有の事情があるからではなく、国民国家がジェノサイドへと向かう政治経済的な条件が整ったから。この点を見誤るとイスラエルへの抗議は容易に反ユダヤ主義へと転化してしまう。逆に言えば、本来イスラエルに抗議することは全く反ユダヤ主義的ではない。

 

2. 固有の文脈を知らない者は口を出すな、というのはジェノサイドを肯定する人の言い分でしかない。歴史をどのように解釈しようとも、人権の存在を認める限り、ジェノサイドを肯定できる理由など存在しない。だから不勉強を理由に声を上げるのを躊躇う必要はない。

 

3. 敵はイスラエルである。しかし敵はアメリカでもあり、日本でもある。敵はあらゆる国民国家である。仮にパレスチナの人々が今回の事態を生き延びた後国民国家を建設しようとしたら、究極的にはそれすらも自分は否定するだろう。全ての人の人権が実質的に保障されるには、国民国家に代わるような新しい政治共同体をつくる必要がある。それがどのようなものかは自分にも分からない。だけど国民国家に帰属することでしか権利を持つことができない今の世界のあり方が続くのであれば、ジェノサイドはずっと起き続けることは明白である。

 

 

 

 

イスラエルの人権団体べツェレムによるバイデン大統領への公開書簡

掲題の公開書簡の内容が簡潔にまとまっていてかつイスラエルに対する思想的な立場の如何に関わらず説得的な内容だったので全訳してみます。この内容に賛同できると感じたならばまずは首相官邸および外務省のサイトからイスラエルに停戦するよう働きかけてという旨の意見を送りましょう。できることはやっておくに越したことはありません。

 

元ツイートはこちらです。https://x.com/btselem/status/1734874006459666894?s=20

 

以下、拙訳(強調や注は訳者による)

 

親愛なるバイデン大統領へ

 

ガザ地区における人道的大惨事について

 

ハマスイスラエル市民への恐ろしくそして犯罪的な攻撃-すなわち、イスラエル市民に加え、外国籍の市民や子どもを含む1200人以上の人々を殺害し、さらに250人もの人々をガザ地区に誘拐したこと-を行って以来、ガザ地区における戦争(注1)はもう9週間以上も続いています。攻撃の直後、イスラエルにて行ったスピーチで、あなたはイスラエル自衛権を明確に支持すると同時に、その行使が国際法の規定、とりわけ戦争のルールに基づいてなされなければならないことを強調しました

 

私たちイスラエルの人権団体や市民団体は、この時点において、私たちの政府があなたの助言や他の米国高官による同様の発言を無視することを選択したと誠に遺憾ながら明言しなければなりません。この書簡は、イスラエルによる戦時下の国際人道法への違反についての重大な疑惑についてのものではなく、あくまでガザにおいて拡大している極めて深刻な人道的危機と、この事象に対するイスラエルの政策を変えさせる喫緊の必要性を主題としています。(注2)

 

戦争が始まって以来、イスラエルの政策はガザにおける人道的危機を大惨事という局面まで推し進めてきました。そして、このことは戦争の必然的な帰結というだけではありません。この政策の一環として、戦闘が始まってからほどなくして、イスラエルはガザへの電気と水の販売を停止し、国境を封鎖し、あらゆる食料、水、燃料、医薬品の入国を阻みました。その後、ガザの南側への水の供給を部分的に再開しましたが、電気なくしては、住民の大多数が安全な飲み水を手に入れられません。10月21日以降、イスラエルはラファフ検問所において支援物資と少量の燃料の部分的な入国を可能にしたものの、これは絶え間ない爆撃-その犠牲者はガザ保健省によると18000人にのぼり、その多くは子どもと女性です-に晒されている住民の増大するニーズを満たすには遠く及びません。

 

ハマスが人質をイスラエルへと解放することは肝要です。しかし、人道的支援物資のガザへの流入を許可することは、イスラエルにとって良心的な行為ではなく、義務の一つです。国際人道法の定めるところによれば、武力紛争下の住民が入手可能な物資だけでは生存できない場合、紛争当事国は食料と医薬品を含む人道的支援物資の早急で阻害されない流通を可能にする積極的義務があります。この義務は、支援物資を必要とする住民が相手国側にいたとしても発生するものであり、支援物資の流通を円滑にするため、もしくはより容易にするために重要な地理的位置にある国家が負うものです。この責務を履行しないことは戦争犯罪にあたります。

 

国連機関や人道団体は、ガザの状況が凄惨であり、住民たちを助ける手段はほぼ尽くされていると報告しています。通行が許可されているトラック数台分の物資-報告によれば、大海の一滴に過ぎません-も、イスラエルによる継続的な爆撃、インフラの破壊、そして地区全体の封鎖によって配布することが不可能となっています。これにより、200万人以上の人々が飢え、渇き、適切な医療的ケアにアクセスできず、水不足や不衛生的な人の過多による感染症の拡大に晒されています。この想像を絶する現実は日に日に悪化しています。

 

あなたには、イスラエルの法的な義務とガザ地区の住民のニーズに基づき、政策を転換し、ガザへの人道的支援物資の流入を可能にするよう、私たちの政府に働きかける力があります。ガザにおける支援物資の配布、および必要な物資の量に関する決定を行うべきなのは、イスラエルではなく、現場にいる国連機関と人道団体です。ケレム=シャローム検問所を開放し、人道的支援物資の継続的で制限なき通行を可能にすることの緊急性は疑いようもありません。

 

私たちは危機の最後の局面にいます。まだ多くの命が失われることを阻止できます。イスラエルは今すぐに政策を転換しなくてはなりません。(注3)

 

心を込めて

 

(各団体による署名)

 

(注1)訳者の立場によればイスラエルが行っているのは戦争ではなく一方的なジェノサイドであり民族浄化です。ここでべツェレムがこの事象を「戦争」と呼んでいるのは、バイデンを含むイスラエルの政策の支持者に対する戦略的な譲歩と思われます。すなわち、「仮にこれが戦争だとしても、戦争においてもやっていいこととダメなことがあり、イスラエルはダメなことをしている」という論法です。

 

(注2)イスラエルが行っていることが戦争だとしても、本来であればイスラエルによる戦時下の国際法違反(例えば、非戦闘員を巻き込んだ無差別な爆撃やジャーナリストの殺害など)も俎上に上げるべきです。ここでべツェレムがあえてそうしなかったのは、またしても戦略的判断であり、この論法によってバイデン大統領とその支持者を説得するのが困難だと判断したからだと思われます。なぜなら、イスラエル側はこうした国際法違反をハマスによるプロパガンダだと否定したり、戦争に犠牲は付き物だと開き直ったりすることができ、バイデンとその支持者もそれに賛同することが予見されるからです。一方で、イスラエルガザ地区を封鎖し、支援物資の流入を防いでいることはイスラエル自身も認めています。そのこと自体が戦争犯罪に値すると指摘することは、イスラエルの政策の非人道性を明らかにする上で効果的と言えます。

 

(注3)訳者の立場によれば、イスラエルは支援物資の流入を可能にするだけでなく、ただちにあらゆる破壊行為を停止し、ガザ地区の封鎖を解除し、ガザ地区および西岸地区における入植をやめ、占領しているすべての土地をパレスチナに返還し、パレスチナ人に対するアパルトヘイトを撤廃する道義的義務があります。

 

死のうとも思ったけどやめた

ジェノサイドを未然に防ぐことは人道の最も基本的で最低限の要求のはずだがそれすらも叶わないこの世界の暗澹たる現状を目の前にすると死んだ方がましじゃないかという気持ちになる。認知行動療法の一環としてなぜそうなるのかを考えてみた。確かに自分が死ぬこととイスラエルによるジェノサイドの間には直接的な因果関係は何もない。自分が首を吊ったところでガザの上に降る爆弾が止むわけでもなければイスラエルによるパレスチナの占領と植民が終わるわけでもない。だから粉々になったガザの人々の身体を想像して自分が死にたくなるのはナンセンスである。

でも本当にそうなのか?日本はイスラエルに人道目的の一時的休戦を求めてはいるが国連の休戦決議案の採択では棄権した。アメリカを筆頭とする西側諸国と同じく基本的にはイスラエル支持の立場であると見て良いだろう。少なくとも建前上は民主主義国家に住んでいるのでこの外交姿勢の責任の一端は主権者であり有権者である私にあるしそれゆえに反対の声を挙げる義務がある。だが反対すると言っても次の国政選挙はいつになるか分からないしその頃にはもう手遅れだ、というか今すでに手遅れになっている。デモに行くのも良いがデモは意思表示でしかなく為政者を従わせる強制力はない。いっそのことジェノサイドに抗議するために自殺してしまった方が話題性があって良いのではないか。

それに、自分にはグローバル資本主義社会における消費者としてイスラエルによるパレスチナの占領に加担してきた責任もある。これまで食べてきたビッグマックや飲んできたスターバックスラテのために払ったお金は巡り巡ってイスラエルの暴虐を支えてきた。生きている限り消費せねばならずその消費が誰かを踏みつけることになるこのシステムに抗しそれから脱却するためには死ぬのも一つの手なのではないか。

死は確かに抗議の手段となりうる。ならば、生きること、今生きていることを正当化するには死ぬことよりも生きて抗議する方が良いことを示さなければならない。幸いにしてそれは不可能ではないと思う。

なぜならば、何よりも、自分一人が死ぬことが持つ抗議としての効果は限りなく小さいからである。家族や友達は悲しんでくれるだろうが、日本の外交政策には何の影響もないと思われる。遺書に「イスラエルによるジェノサイドに抗議するために死にます」と書いたところで、多分ニュースにはならないだろうし、なったとしてもヤフコメでバカにされるのが関の山だろう。結局自分の死にそこまでの戦略的価値はないのだ。

ただ、自分が死んだところで大した抗議にはならないからと言って、ただちに自分は生きていて良いことにはならないだろう。生きることを正当化するためには、生きて抗議することが死ぬことで抗議するよりも価値があることを証明しなければならない。そして有効に抗議することはこれまで見てきたように非常に困難である。

結局のところ、生きていて良いのか、それとも死んだ方が良いのかは分からない。ジェノサイドを止めるために何もできない自分なんて死んだ方がましなのではないかとは思うものの、死んだところであんまり意味はないので死なないでおこうとも思う。生きるための積極的な理由を見出すためには抗議し続けるしかないのだろう。でもその抗議が効果的な抗議でなければ生きていても死んでいても変わらないし、むしろ死んだ方がましなのだろう。だから文字通り死ぬ気で抗議する必要があるのだろう。

自分は生きたいと思う。でもガザの人々だって生きていたかっただろうし、ガザの人々が爆撃されて良い道理なんてどこにもないと思うし、ガザの人々が殺されているのにも関わらず平然と生きる権利など自分にはないと思う。これは仕方のないことではないし、これがこの世の現実なのだとしたら自分はそれを拒絶する。そして死によって拒絶することが無意味であるなら命をかけて拒絶しようと思う。

 

 

2023/2/15・16 ペイヴメント東京公演

・2日目オープニングアクトのミツメが非常に良かった。ドラムがうますぎる。一番好きなDiscoで始まったのも良かった。睡魔めっちゃいい曲、でもさすがに最終盤でいきなりギターデカくなりすぎでしょ何が睡魔だよと思った。

・ミツメとペイヴメントの対比が良かった。ミツメは演奏がとにかく隙がなくタイト。曲も丁寧に丁寧に、細部に至るまで意図を持って構築されている印象。ペイヴメントは曲の土台だけ盤石で、アレンジや演奏は自由演技という感じ。事故的な要素も許容する懐の広さと外に広がっていく風通しの良さがある。マルクマスは何回か(一発目のCut Your Hairからそうだった)ギターに気持ちが入りすぎて歌い出しが遅れる場面があったけど、あれを川辺さんがやったら会場はドン引きだと思う。ペイヴメントだから許される不思議(いい意味で)。ひねくれていると形容されがちだけど根底にあるのはおおらかさと優しさな気がする。

・両日ともにセットリストが良すぎた。1日目はPerfume-V、Lions (Linden)、The Hexx、Fight This Generation、Kennel Districtが予想外で嬉しかった。2日目はリクエストしたFrontwardsとFillmore Jiveをどっちもやってくれて感動。Father To A Sister Of Thoughtは名曲、アンコールのラストがFinでやられた。F始まりの曲多すぎ

・Box Elderがいい曲すぎて信じられない。あれが最初期の曲ってどういうことですか??おれもバンド始めようとか言ってあんな曲書きてーーー

・ずっとAT&Tやれっつってる人がいて、Spiral Stairsが「次はAT&Tの初期のバージョンをやります」とか言って結局Summer Babeやったのウケた。

東京ドームシティホール水道橋駅からのアクセスが圧倒的に良すぎる。逆に後楽園は遠すぎ

・サポートのRebecca Coleって人大活躍だった。Spit On A Stranger のイントロの変な音とかWe DanceやType Slowlyのピアノとか、押さえて欲しいディテールを全部押さえてくれてた。

・Range Lifeはやっぱり大名曲だった。間奏のギターが良すぎる。

・マルクマスギターうますぎ。あんな風に歌うように弾けたらめちゃくちゃ楽しいんだろうなと思う。というか歌うようなつもりで弾いてるから歌い出しが遅れるのかなと邪推する。

 

 

Allo Darlin’の活動再開に寄せて

Allo Darlin'はロンドンを拠点とするインディー・ポップ・バンドである。2009年にセルフタイトルのデビューアルバムを発表した後、2012年と2014年にもアルバムをリリースしたが、2016年末に解散してしまった。しかし、つい先日、バンドのTwitterアカウントでバンドの再結成が発表され、ロンドンで数回ライブを行うことが告知されるとともに、新たに楽曲制作を行うことも示唆された。

 

このニュースを聞いて、私が思うことはただ一つ。もっと多くの人に、Allo Darlin'を知ってほしい。

 

月並みな表現だが、Allo Darlin'の音楽は癒しなのだ。それだけ聞くと「ケッ」と思う人もいるだろう。私もそうだ。「私たちの曲を聴いて癒されていただければと思います」という旨のことを言っているバンドを見る度に虫唾が走る。ポップスごときで人の苦しみが癒えると思ってんのか、思い上がるにもほどがあるだろ、と思う。

それでも人は癒しを必要とするものだ。長い1日の後はお風呂に入りたくなるし、気が張り詰めている時は紅茶を飲めば落ち着くし、もうダメだと思った時はふかふかの布団に飛び込みたくなる。そんなお風呂や紅茶や布団のように、Allo Darlin'の音は温かいのだ。大袈裟ではなく、恩着せがましくもなく、こちらを理解した風でもない。ただそこにあって、一時の温かさをもたらしてくれるのだ。

その温かさの大部分は、ボーカルのエリザベス・モーリスの歌声とウクレレの音色から来ているように思う。モーリスの声域はおそらくアルトで、高低の幅はそこまで広くないように思われるが、その分中音域における表現力が非常に高い。彼女の微妙に霞がかったような独特の声質と、歌詞の一音一音の発音の丁寧さと相まって、歌うというよりも語りかけるという表現が似合う。

また、彼女はウクレレでコードを鳴らしながら歌うのだが、このウクレレの音色が表面的には南国の太陽のような明るさを想起させるものの、よくよく聞くと空虚で物悲しい響きも含まれており、Allo Darlin'の音に絶妙な両義性をもたらしている。曲はメジャーキーのものがほとんどだが、ただ明るいだけではないところがサウンドの温かみを一層引き立てている。

 

Allo Darlin'は歌詞も素晴らしいのである。モーリスの書く詞は、人生の辛さ、悲しさ、やるせなさを正面に見据えつつ、それでも優しさや希望を抱かせてくれる。人生とは生きるに値するし、生きるに値する人生を送ることは可能なのだと思わせてくれるのだ。

活動再開に際してTwitterで発表された文章にも、そんなAllo Darlin'のエートスが詰まっているように思う。以下、原文からの抜粋と筆者による訳を記してみる。

 

In the years we were active as a band, the musical landscape changed, and we got older too. It was hard, if not impossible to make a living from music, at least the type of music we made. This is even more true today. But Allo Darlin’ was never about being successful. This year, 2023, Allo Darlin’ are going to reunite for some shows in England. We hope to make some more music together too. Life is too short to not do the things you love, to do the things that make life worth living. That goes for you too.

 

バンドとして活動していた数年間の中で、音楽界の様相も変わり、私たちも年を重ねました。音楽で生計を立てることー少なくとも、私たちが作るような音楽でーは、非常に困難か、あるいは不可能でした。このことは今、より真実味を増しています。でもAllo Darlin'は成功を収めるために結成されたわけではありません。今年、2023年に、Allo Darlin'はロンドンで数回ライブを行うために再結成します。また、楽曲の制作も再開できたらと思っています。自分の愛すること、生きていて良かったと思えることをやらずにいるには、人生はあまりにも短すぎるのです。それは、皆さんにも当てはまることです。

 

Allo Darlin'の活動再開は、単に「いいバンドが活動再開した、良かったね」という話ではない。それは、困難な状況に立ち向かいながら、なおも自分の愛することをし続けるために立ち上がった大人たちがいる証なのだ。そしてそれは自分たちにもできるかもしれないと思わせてくれる希望の狼煙なのだ。

 

Allo Darlin'の傑作アルバム「Europe」のタイトル曲に、こんな歌詞がある。

 

Europe - YouTube

 

This is life/This is living

これが人生/これが生きるということ

 

手放しで前向きな歌詞というわけではない。むしろ、聴く人やその時の気分によっていかようにも変わるだろう。嫌なことがあったときや、何かを諦めざるを得なくなった時も、それが人生であり、それこそが生きるということだと言える。でも、今日はAllo Darlin'の活動再開を受けて、自信をもって言える。生きていて良かったと思えるような何かをすること、それが人生であり、それこそが生きるということだ、と。