排外主義について
多くの人が参院選での参政党の躍進に心を痛めていることと思います。
この流れはすぐには止まりません。救世主が現れることもないでしょう。
何とかするには、結局一人ひとりができることをやるしかないんだと思います。
じゃあ自分には何ができるんだろうと考えたとき、排外主義について自分がこれまで勉強してきたことを書こうと思いました。
排外主義に反対するのに、勉強は必要ありません。勉強をしたからと言って、すぐれた解決策がすぐに思い浮かぶわけでもありません。
でも、排外主義がなぜ起こり、なぜ伝播していくのかを理解することは、それを食い止めるために重要だと思います。
差別や外国人排斥を掲げる政治家や政党に反対の意思を示し続けてきた。でも世の中はどんどん悪いほうに向かっていく。どうしてなのか分からない。どうしたらいいのか分からない。
そんな人にとって、これから書くことが役に立ったら良いな、と思います。
なぜ排外主義は起こるのか
「排外主義」という言葉は、排外主義に反対する人が使う言葉です。
だから問題がある、と言いたいわけではありません。どんなに耳障りの良い言葉で上塗りされていたとしても、内実が排外的であるならそれは排外主義だし、それを排外主義だと指摘することは重要です。
でも、排外主義を掲げる人たちにとって、なぜ排外主義が魅力を持つのか、ということを考える上では、不便だと思います。
そこで、排外主義を掲げる人たちが使う、「○○ファースト」という言葉から考えたいと思います。
漢字にすると、「自国第一主義」とか、「自国民優先主義」になります。
その主張を一言に集約しようとすれば、次のようになります。
他の国(民)じゃなくて、自分の国(民)のことを第一に考える。
ぱっと見ただけでは、あまり問題なさそうな文言だ、と思わせてしまう説得力のある考え方だと思います。
ここでは、この考え方のどこが問題なのかは書かない事にします。
この文書を読んでいる人なら分かっていると思うし、そうでなくても、「○○ファースト」を掲げている政治家が、実際にどんなことをやっているかを考えれば、自ずと分かると思うからです。
ここではあくまで、「なぜぱっと見ではしっくり来てしまうのか」を考えていきます。
端的に言うと、それは今の世界が大体そうやってできているからです。
世界の国々は、程度の差こそあれ、少なくとも建前上は、みな自国民のことを第一に考え、自国民の生命と財産を守るために存在しています。
国民がどの範囲のことを指しているのかは、国によって異なります。
日本のように、血統・人種・母国語・文化を総合的に考慮して、厳格に国民を定義する国もあります。
逆にアメリカのように、国民の定義が比較的ゆるい国もあります。そうした国では、血統・人種・母国語・文化を問わず、そこで生まれれば国籍が付与されたり、あるいは移民してきた外国人に対して、元の国籍を捨てずにその国の国籍を取得する道が開かれていたりします。
でも、日本もアメリカも、それぞれ自国民の利益を最優先に動いている点では一緒です。
国民という人々の集まりが国家を形成する。
国家は国民のために存在し、国民のために働く。
こうした国の在り方を「国民国家」と呼びます。
そして、この「国民国家」という考え方を多くの人がすんなり受け入れていることが、「自国第一主義」「自国民優先主義」の根本的な原因です。
もちろん、これだけでは、なぜある国である時に流行ったり、違う時には流行らなかったりするのかは説明できません。
似たような状況を抱えている二つの国でも、一方では台頭し、もう一方では下火になったりします。
国民国家において自国第一主義が流行るのは、必然というわけでは決してありません。
ただ言えるのは、国民国家という考え方が世の中に普及している限り、自国第一主義が台頭する可能性は常にある、ということです。
排外主義という過激な主張の根っこには、国民国家という、多くの人にとっての当たり前がある、ということは、排外主義を考える上で重要な点だと思います。
国民国家の危険性
排外主義の問題点は結構分かりやすいと思います。
それに比べて国民国家の問題点はちょっと分かりにくいかもしれません。
歴史を振り返ると、国民国家という考え方の登場は、様々な場所でポジティブな変化をもたらしました。
ヨーロッパにおいては、それまで王族や貴族のものだった国を、平民=国民のものとして捉えなおしたことにより、民主主義の隆盛に大きく寄与しました。
また帝国による支配と搾取に苦しめられた植民地においては、国民意識の形成が独立運動の原動力となりました。
この二つの側面―国内の代表制民主主義と、対外的な独立―は、「民族自決」、つまり「民族のことはその民族が決める」という形で、第一次世界大戦後に国際政治の原則として表明され、今なお国際社会の秩序の基礎となっています。
では、国民国家の問題はどこにあるのでしょうか。それは、国民という集団にとって、邪魔者とみなされる人々が必ず出てくる点です。
国民国家をすんなり受け入れている人にとって、世界はとてもシンプルです。
人は皆所属する民族があって、民族にはそれぞれ所属する国家がある。
国家の役目は、国民の生命と財産を守ること。
外国人のことは、あくまで二の次。
好きで来ているのだから、しょうがない。
そんなにこの国にいたいんだったら、帰化すれば良い。
それが嫌だったら、自分の国に帰れば良い。
そこで面倒を見てもらえば良いのだから。
でも、現実はそんなに簡単ではありません。
例えば、生まれた国があまりにも貧しく、人間らしい生活を送れない人々は、自らの不運を嘆いて死んでいくしかないのでしょうか。
あるいは、移民した先で、二級市民として扱われ、劣悪な環境で働かされても、文句を言う資格はないのでしょうか。
先祖が代々住んでいた土地が、ある時別の民族に収奪され、以来迫害され続けている人たちはどうすれば良いのでしょうか。
自分たちの国が帝国に併合されて、その臣民にさせられたと思ったら、後にその帝国が解体されるに伴って、国籍を剥奪され、無国籍となってしまった人々は、誰に助けを求めれば良いのでしょうか。
文化や宗教、言語や政治思想の違いによって迫害を受けている人々は、ただじっと耐えるしかないのでしょうか。
国民国家に基づく世界観には、確かに魅力的なシンプルさがあります。
でも現実はいつも多様で複雑です。
そして、多様で複雑な現実に、シンプルな解決策を押し付けようとする時には、必ず惨劇が起こります。
その最たる例がジェノサイドです。
アメリカ、カナダ、オーストラリアの、それぞれの成り立ちの過程で行われた、先住民の大量虐殺。
それを参考にして行われた、明治政府によるアイヌ社会・文化の抹殺。
ボスニア・ヘルツェゴビナにおける、スルプスカ共和国軍によるスレブレニツァのジェノサイド。
ルワンダにおける、フツ族至上主義者によるツチ族のジェノサイド。
そして今なお続く、中国共産党によるウイグルの、ミャンマー国軍によるロヒンギャの、そしてイスラエルによるガザのジェノサイド。
これらの所業はみな、
「混じり気のない国民国家を作りたい」
「国民国家にとっての邪魔者を消したい」
という政治的目的のために行われています。
だから、「邪魔者を排除しよう」という掛け声が声高に叫ばれるようになった時、地獄はもうすぐそこまで来ているのです。
国民国家において必ず排外主義が台頭するわけではないように、国民国家は必然的にジェノサイドを生むわけではありません。
それでも、根っこは同じである、と認識することは重要だと思います。
ジェノサイドは特殊な状況の産物ではあるかもしれませんが、特殊な国家、特殊な国民の産物ではありません。
つまり、「あの国はああだから」「あの国の人たちはこうだから」で説明がつく代物ではないのです。
「国家は国民のもの」という原理に基づいて世界中の国が組織されている以上、ジェノサイドが起きるための素地は、どんな国にもある、と言わざるを得ません。
排外主義を食い止めるために
排外主義には、特効薬はありません。
参政党のような政党だけを見ると、突然現れて、急激に勢力を伸ばしているように見えますが、その現象の裏側にある国民国家という考え方は、これまで見てきたように、時間をかけて多くの人に浸透してきたものです。
だから、対抗するためには、参政党のような「症状」だけでなく(それももちろん大事ですが)、その根本にある「原因」と戦う必要があります。
ただし、国民国家それ自体をどうにかしよう、というのは現実的ではありません。少なくとも、それは今すぐにできることではありません。
今ここで自分たちにできることは、外国人を危険視し排除しようとする言説に対抗して、外国人と平和的に、互恵的に共存しようという言説を作り上げ、普及させることです。
その際に重要なのは、「移民を受け入れよう」という言い方をしない、ということです。
移民受け入れの賛成・反対という議論に乗るのは、排外主義者の思うつぼです。
なぜなら、それは「移民を受け入れるか締め出すかは、受入国の国民が決めることである」という前提に立った議論だからです。
この前提は、排外主義者だけでなく、国民国家に違和感を感じない多くの人々が共有しています。その上で戦う限り、排外主義者の有利は変わりません。そして仮に「移民受け入れ賛成」側が勝ったとしても、国民国家が出入国管理の権限を有する限り、入国を許されるのは「正しい」移民、「役に立つ」移民、「受入国にとって望ましい」移民だけです。そのような歪んだ「移民受け入れ」の行きつく先は、今のアメリカです。
受け入れるか、受け入れないか以前に、今の日本にはすでに大勢の外国人が暮らしています。
外国人の労働者は、すでに多くの産業を支えており、もはや社会と経済にとって不可欠の存在となっています。
「移民を受け入れるかどうか」という問いは、もはや意味を成さないのです。
にもかかわらず排外主義者がそれを好むのは、その問いが上記の事実を覆い隠してしまうからです。
だから排外主義に抵抗するために問うべきなのは、次のことです。
すでに外国人とともに生きている私たちは、今後外国人とどう生きていくべきか。
日本人とは異なる、危険な存在として差別し続けるのか。
差異を認めながら、法の下で平等な存在として、公平に処遇するのか。
日本人から仕事を奪う競争相手として憎むのか。
減少している働き手の数を補う貴重な存在として、自由に労働市場に参画できるようにするのか。
参政権を断固として拒絶し続けるのか。
地方レベルから徐々に機会を拡大させていくのか。
この問いの立て方が、直ちに排外主義に対する勝利をもたらすわけではありません。
それでも、分はこちらの方がよっぽど良いと思います。
なぜなら、熱心な排外主義者はともかくとして、多くの一般的な日本人にとって、日本に入ってこようとする外国人を排除するよりも、すでにともに暮らしている外国人を排除する方が、心理的なハードルが上がるはずだからです。
すでに日本には、外国人の住民の比率が著しく高い、外国人集住都市と呼ばれる都市・地域がいくつも存在します。
そうした場所では、国政や世間一般における排外主義的動向をよそに、あくまで現実的な課題として、外国人と日本人の軋轢を避け、より良く共生していくための試みが、何年も前から行われています。
だからと言って、そうした場所が理想郷だとは思いません。言葉と慣習が違う人々がともに暮らそうとするとき、必ず様々な困難が生じます。
それでも、実際に多くの外国人と暮らす日本人が、困難が生じたからと言ってすぐに彼らを排除するのではなく、これからもともに生きていくために問題を前向きに解決しようとしていることに、僕は希望を感じます。
すでに排外主義に染まった人を説得し、改心させるのは容易ではありません。であれば、排外主義に対抗しようとする僕たちがやるべきなのは、いわゆる「普通の」人が排外主義に傾くのを阻止することです。
「侵入者を撃退する」というイメージを払しょくし、「隣人と生きる」というイメージを広められれば、より多くの人が外国人とともに生きることを肯定的に捉えるようになる、と僕は信じています。
結局「人の考え方を変えよう」かよ、と思うかもしれません。
確かに、もっと個別具体的な行動が必要な局面もあります。それを怠っては元も子もありません。
それでも、僕は人の考え方を変えることから逃げてはいけないと思います。
社会は人が集まってできています。そして社会の在り方は、ルールや制度によって規定されているように見えますが、そのルールや制度は人が作ったものであり、人の信条、偏見、イメージが反映されています。
社会を変えたかったら、人を変えるしかないのです。
僕は今の状況を決して楽観視してはいません。
それでも、人は変えられるし、社会は変えられる、と思って、できることをやるつもりです。
それが隣人に対する責務だと思うからです。
もし同じ気持ちなら、一緒に頑張っていきましょう。
Apple MusicにU2のアルバムが勝手に入ってた事件から10年が経とうとしている
即ライブラリから消したので聞いたことなかったんだけど今日SING 2見ててクライマックスでI Still Haven't Found What I'm Looking Forが流れててベタだけどいいなと思ったので聞いてみた
アルバム名はSongs of Innocenceとのこと、ウィリアム・ブレイクへのオマージュにしても仰々しすぎないか?まあU2に謙虚さを求めるのはお門違いだろう
一曲目はJoey Ramoneへのトリビュート、ギターの音色は確かにラモーンズぽくなっていた、それ以外は特筆すべき要素のない曲
二曲目と三曲目はまじで印象がなかった、どっちかの終盤のギターソロが良かった気がする
四曲目は毒にも薬にもならない
五曲目、イントロのBonoの声が夏の終わりのイントロの森山直太朗ぽい クソ長い割に盛り上がりに欠ける
六曲目、イントロが最悪 The Killsの良さを全て消し去った感じ
七曲目もイントロから最悪 痰吐いてるおっさんみたいな音がする Aメロの途中でなくなったかと思ったらBメロで復活しやがった あとEdgeはディレイをかけるしか能がないのか?
八曲目、七曲目が終わってホッとしてたのも束の間鬼ダサいリフ(ツェッペリンのWhole Lotta Loveを煮出しまくった後の出涸らしみたいな)をぶち込んできて最悪だった あと三曲もあるのかこれ、、、
九曲目、七曲目を超える最悪のイントロ このバンドからシンセサイザーを取り上げてくれ
十曲目、イントロの最悪値を更新 Aメロのギターはちょっとストーンズっぽくてかっこいい と思ったらBメロでワウ踏み出して最悪だった ドラムが四つ打ちになってからは劣化版Franz Ferdinand
十一曲目、正直これでアルバムが終わることに安堵しすぎてあんまり覚えてない まあデンジャーマウスのプロデュースっぽく無難にまとまっていた
総評としては良くこんなの勝手に配信しやがったな、金払っても聞くのはごめんだという感じ
こういうマーケティングの走りは多分Windows 95にWeezerのBuddy Hollyが初期から入ってたやつだと思うんだがあれが成功?(当時赤ちゃんだったんで本当のところは分からん)したのは①Weezerが駆け出しであったこと②曲もMVもキャッチーで分かりやすかったこと③アルバム丸々じゃなくて一曲だけだったこと、この三要素によるものでもうピークを過ぎたおじさんバンドの真面目くさった凡アルバムを強制配信しやがったAppleは多いに反省しろ、あとレアメタル目当てに殺戮と搾取に加担するのをやめろ
SING 2自体は期待値ゼロで見た割には楽しめた、前作よりエンタメに振り切ったのが良かったと思う、Yeah Yeah YeahsのHeads Will Rollが流れたのが良かった
やりたいこと
かぶってるものあったら一緒にやりましょう
・MTGのリミテッドの大会出る
・オムライス屋さんに行きまくる
・大谷翔平の試合を生で見る
・寿々㐂家にもう一回行く
・ポケットモンスターエメラルドのバトルタワー100連勝達成
・ダークソウル3のロンドールのユリアイベント完遂
・エルデンリングの狂い火エンド達成
・SEKIROで怨嗟の鬼倒す
・あつ森の美術品コンプ
・47都道府県全てで一泊する
・バンドでライブする
・ペイヴメントもう一回見る
・大喜利大会に出る
・ハローのライブかイベントを最前列で見る
・もう一回プーケット行く
・草野球かソフトボールする
・書きかけの小説を終わらせる
・文芸翻訳検定の1級Aを取る
・スマホケース新しくする
・ボードゲーム作る
ジェノサイドを前にして人間たらんとすること
アドルノ曰くアウシュヴィッツの後に詩を書くことは野蛮である。ではガザの最中にブログを書くことは何なのだろう。
そもそもアウシュヴィッツの後に詩を書くことの何が野蛮なのだろう。詩を通してホロコーストの記憶を継承すること、非人間化されたユダヤ人、ロマ人、性的少数者、障がい者の人々の人間性を改めて想起させること、そしてこれらのことを通じてホロコーストを二度と起こさせないようにすることは意義ある試みではないのだろうか。
だがその試みはどこまで実現可能なのだろうか。ジェノサイドを繰り返さないためにはジェノサイドを準備する社会経済的な構造を取り払う必要がある。だが西洋中心主義、植民地主義、資本主義、ナショナリズム、人種主義、排外主義は衰退するどころか日々より強固になっていく。そしてジェノサイドは繰り返され今も続いているーコンゴで、ミャンマーで、新疆ウイグル自治区で、スーダンで、そしてガザで。この圧倒的な現実を前にして詩はあまりにも非力である。それにも関わらず詩を書こうとするのは非倫理的である、というのがアドルノの言い分なのかもしれない。
ではなぜアドルノは「野蛮」という言葉を用いたのだろう。野蛮というとき、想起される対概念は文化や文明、つまり人間による作為的な「進歩」だろう。だがこれこそアドルノが唾棄する啓蒙主義的な発想の極みなのではないか。圧倒的な不正義を前にして詩を書くことの非力さ、無意味さを「野蛮」と評するとき、アドルノは自ら批判の対象とした野蛮と文明、感性と理性の二項対立に陥っているのではないか。詩を書くことが「野蛮」であったとして、アウシュヴィッツを経た人類がとるべき真の「文明的な」態度とはいかなるものか。
そもそも啓蒙主義がホロコーストの究極的な原因であると喝破したのはアドルノだ。(無論、アメリカやヨーロッパによるアフリカや南アフリカ大陸での行いを見ていれば、彼はより容易に啓蒙主義とジェノサイドの因果関係に辿り着けたであろう。)「野蛮さ」を「理性」によって超克すべき対象として認識するとき、私たちはすでにジェノサイドの種を蒔いているのだとしたら、私たちは人間が野蛮でもあり理性的でもあるという認識から出発しなければならないだろう。そして野蛮であると開き直るわけでもなく、かと言って理性を過信せず、その両端の間で揺れ動くことに耐えなければならないのだろう。
人間および人間性とその究極的な否定であるジェノサイドについて考えるとき、想起される文章がもう一つある。岡真理は『アラブ、祈りとしての文学』(2008)の冒頭において、当時から既に絶望的と形容すべきパレスチナの状況を前にして文学の意義を問うている。その中で、彼女はある青年との会話の中で、残酷にもなぜ彼が生への希望を捨て、自爆テロという手段をもってせめてもの抵抗を示し自尊を回復しようとしないのかを問う場面がある。未だ希望はある、と青年が答えると、岡は果たしてどこにあるのかと問い返す。すると青年は悩んだ末にこう答える。どこにあるかは分からないが、希望はあると。
岡は序文において、希望がパレスチナ人にとって根拠のあるものというよりは無根拠的な祈りのようなものであり、そうした希望を持ち続けるための魂の滋養を提供することこそが文学の意義であると主張する。この主張それ自体は賛否はともかくとして感動的なものだと思う。私が引っかかるのは、岡が先ほどの青年の希望を捨てない生き様について、しきりに「人間の側に踏みとどまる」といった表現で形容していることである。
パレスチナの絶望的な状況においてなお希望を捨てずに気高く生きることはもちろん称揚すべきである。しかしそれを「人間の側に踏みとどまる」と形容するとき、岡は自爆テロを含む武力闘争を「非人間的」であると暗示してしまってはいないだろうか。そしてそれはそのままハマス、ひいてはパレスチナ人を指して「人間動物」と呼称したイスラエルの指導者たちの論理に乗ってしまっていないだろうか。
もちろん暴力は忌避されるべきである。しかしそれは一般論であり、あらゆる暴力を一元的に否定することは「誰が」「どのような理由で」「誰に」暴力を行使しているかを不可視のものにする。岡自身も再三にわたって指摘している通り、イスラエルによる不当な占領がなければハマスも存在しない。ハマスは何よりも反植民地の抵抗勢力である。だからといってハマスの行いの全てが正当化されるわけではもちろんないが、こうした背景を無視した安易な暴力批判は、現実政治においてはイスラエル植民地主義を肯定する機能しか持ちえない。
暴力による抵抗は非人間的なのだろうか。私にはむしろそれは人間的に見える。自爆テロこそ人間性の極みであろう。他の動物と人間を分つもの、それは自死を選びうる能力であり、自己や種の生存よりも大きな目的ー正義、公正、平等ーのために殉じる能力である。
しかし、暴力による抵抗が人間的なのであれば、暴力による収奪もまた人間的だろう。この意味で、ジェノサイドは人間性の究極的な否定であると同時に、その究極的な発現でもあると形容するのが正しいだろう。ジェノサイドを積極的に推進する人々も、それを傍観=加担する私たちも、非人間的なのではなくあまりにも人間的なのだ。人間性や人の道など、そもそも大それた尊いものなどではないのだ。結局のところ人権概念が空虚で恣意的なものにしかなりえていないのも、人間が人間であるということそのものに特に倫理性などないからである。人間ははなから非倫理的、いや亜倫理的(amoral)な存在なのだ。
ガザの最中にブログを書くこと、それは野蛮どころか、あまりに人間的な営みである。私はこうしてブログを書き終え、就寝し、明日また目覚め、向精神薬を飲んでぬくぬくと精神の回復を待つ。その間もガザの地面は瓦礫と人間の臓物で覆い尽くされる。なんと人間的な状況だろう。人間として生まれてしまった全ての人が、来世は別の生き物になれますように。もしくは、来世など存在しませんように。
イスラエルについての覚え書き
国家: ある領土内における正統な暴力の行使を占有する共同体(ウェーバー)
国民(ネイション): 想像上の、有限で、主権を有する政治共同体(アンダーソン)
ナショナリズム: 国家の範囲と国民の範囲が一致すべきであるという政治的な信条(ゲルナー)
この三つの等号が成り立つ限り国民国家の成立と維持には必ず暴力が伴う。なぜなら、あらゆる国家の領土内にはマイノリティが存在し、国民国家を成立させ維持するためにはそうしたマイノリティを暴力的に捨象しなければならないから。その究極的な手段がジェノサイドである。
とりわけアメリカやカナダ、オーストラリア、そしてイスラエルといった入植型の国民国家(元々人が住んでいる土地を奪って建てられた国民国家)の成立と維持は必ずジェノサイドを伴う。その土地に元々住んでいる人々の存在を否定しない限りその土地に国民国家を成立させることはできないから。
もちろんイスラエルとパレスチナに固有の文脈はある。だがジェノサイドが起こっている構図自体は宗教や歴史に頼らずとも上のような一般的な理論で説明できる。だから大局的に見て、イスラエルとパレスチナのどちらが抑圧者であるかは明白であり、それを覆す特有の事情などどこにも存在しない。
なので、次の三つのことが言える。
1. イスラエルは特別な国家ではない。イスラエルは特別に善いわけでも、特別に悪いわけでもない。イスラエルは国民国家であり、他のすべての国民国家と同様に(アメリカのように、ドイツのように、日本のように)ジェノサイドへの契機を秘めている。今イスラエルがジェノサイドを行なっているのはイスラエルに特有の事情があるからではなく、国民国家がジェノサイドへと向かう政治経済的な条件が整ったから。この点を見誤るとイスラエルへの抗議は容易に反ユダヤ主義へと転化してしまう。逆に言えば、本来イスラエルに抗議することは全く反ユダヤ主義的ではない。
2. 固有の文脈を知らない者は口を出すな、というのはジェノサイドを肯定する人の言い分でしかない。歴史をどのように解釈しようとも、人権の存在を認める限り、ジェノサイドを肯定できる理由など存在しない。だから不勉強を理由に声を上げるのを躊躇う必要はない。
3. 敵はイスラエルである。しかし敵はアメリカでもあり、日本でもある。敵はあらゆる国民国家である。仮にパレスチナの人々が今回の事態を生き延びた後国民国家を建設しようとしたら、究極的にはそれすらも自分は否定するだろう。全ての人の人権が実質的に保障されるには、国民国家に代わるような新しい政治共同体をつくる必要がある。それがどのようなものかは自分にも分からない。だけど国民国家に帰属することでしか権利を持つことができない今の世界のあり方が続くのであれば、ジェノサイドはずっと起き続けることは明白である。
イスラエルの人権団体べツェレムによるバイデン大統領への公開書簡
掲題の公開書簡の内容が簡潔にまとまっていてかつイスラエルに対する思想的な立場の如何に関わらず説得的な内容だったので全訳してみます。この内容に賛同できると感じたならばまずは首相官邸および外務省のサイトからイスラエルに停戦するよう働きかけてという旨の意見を送りましょう。できることはやっておくに越したことはありません。
元ツイートはこちらです。https://x.com/btselem/status/1734874006459666894?s=20
以下、拙訳(強調や注は訳者による)
親愛なるバイデン大統領へ
ガザ地区における人道的大惨事について
ハマスがイスラエル市民への恐ろしくそして犯罪的な攻撃-すなわち、イスラエル市民に加え、外国籍の市民や子どもを含む1200人以上の人々を殺害し、さらに250人もの人々をガザ地区に誘拐したこと-を行って以来、ガザ地区における戦争(注1)はもう9週間以上も続いています。攻撃の直後、イスラエルにて行ったスピーチで、あなたはイスラエルの自衛権を明確に支持すると同時に、その行使が国際法の規定、とりわけ戦争のルールに基づいてなされなければならないことを強調しました。
私たちイスラエルの人権団体や市民団体は、この時点において、私たちの政府があなたの助言や他の米国高官による同様の発言を無視することを選択したと誠に遺憾ながら明言しなければなりません。この書簡は、イスラエルによる戦時下の国際人道法への違反についての重大な疑惑についてのものではなく、あくまでガザにおいて拡大している極めて深刻な人道的危機と、この事象に対するイスラエルの政策を変えさせる喫緊の必要性を主題としています。(注2)
戦争が始まって以来、イスラエルの政策はガザにおける人道的危機を大惨事という局面まで推し進めてきました。そして、このことは戦争の必然的な帰結というだけではありません。この政策の一環として、戦闘が始まってからほどなくして、イスラエルはガザへの電気と水の販売を停止し、国境を封鎖し、あらゆる食料、水、燃料、医薬品の入国を阻みました。その後、ガザの南側への水の供給を部分的に再開しましたが、電気なくしては、住民の大多数が安全な飲み水を手に入れられません。10月21日以降、イスラエルはラファフ検問所において支援物資と少量の燃料の部分的な入国を可能にしたものの、これは絶え間ない爆撃-その犠牲者はガザ保健省によると18000人にのぼり、その多くは子どもと女性です-に晒されている住民の増大するニーズを満たすには遠く及びません。
ハマスが人質をイスラエルへと解放することは肝要です。しかし、人道的支援物資のガザへの流入を許可することは、イスラエルにとって良心的な行為ではなく、義務の一つです。国際人道法の定めるところによれば、武力紛争下の住民が入手可能な物資だけでは生存できない場合、紛争当事国は食料と医薬品を含む人道的支援物資の早急で阻害されない流通を可能にする積極的義務があります。この義務は、支援物資を必要とする住民が相手国側にいたとしても発生するものであり、支援物資の流通を円滑にするため、もしくはより容易にするために重要な地理的位置にある国家が負うものです。この責務を履行しないことは戦争犯罪にあたります。
国連機関や人道団体は、ガザの状況が凄惨であり、住民たちを助ける手段はほぼ尽くされていると報告しています。通行が許可されているトラック数台分の物資-報告によれば、大海の一滴に過ぎません-も、イスラエルによる継続的な爆撃、インフラの破壊、そして地区全体の封鎖によって配布することが不可能となっています。これにより、200万人以上の人々が飢え、渇き、適切な医療的ケアにアクセスできず、水不足や不衛生的な人の過多による感染症の拡大に晒されています。この想像を絶する現実は日に日に悪化しています。
あなたには、イスラエルの法的な義務とガザ地区の住民のニーズに基づき、政策を転換し、ガザへの人道的支援物資の流入を可能にするよう、私たちの政府に働きかける力があります。ガザにおける支援物資の配布、および必要な物資の量に関する決定を行うべきなのは、イスラエルではなく、現場にいる国連機関と人道団体です。ケレム=シャローム検問所を開放し、人道的支援物資の継続的で制限なき通行を可能にすることの緊急性は疑いようもありません。
私たちは危機の最後の局面にいます。まだ多くの命が失われることを阻止できます。イスラエルは今すぐに政策を転換しなくてはなりません。(注3)
心を込めて
(各団体による署名)
(注1)訳者の立場によればイスラエルが行っているのは戦争ではなく一方的なジェノサイドであり民族浄化です。ここでべツェレムがこの事象を「戦争」と呼んでいるのは、バイデンを含むイスラエルの政策の支持者に対する戦略的な譲歩と思われます。すなわち、「仮にこれが戦争だとしても、戦争においてもやっていいこととダメなことがあり、イスラエルはダメなことをしている」という論法です。
(注2)イスラエルが行っていることが戦争だとしても、本来であればイスラエルによる戦時下の国際法違反(例えば、非戦闘員を巻き込んだ無差別な爆撃やジャーナリストの殺害など)も俎上に上げるべきです。ここでべツェレムがあえてそうしなかったのは、またしても戦略的判断であり、この論法によってバイデン大統領とその支持者を説得するのが困難だと判断したからだと思われます。なぜなら、イスラエル側はこうした国際法違反をハマスによるプロパガンダだと否定したり、戦争に犠牲は付き物だと開き直ったりすることができ、バイデンとその支持者もそれに賛同することが予見されるからです。一方で、イスラエルがガザ地区を封鎖し、支援物資の流入を防いでいることはイスラエル自身も認めています。そのこと自体が戦争犯罪に値すると指摘することは、イスラエルの政策の非人道性を明らかにする上で効果的と言えます。
(注3)訳者の立場によれば、イスラエルは支援物資の流入を可能にするだけでなく、ただちにあらゆる破壊行為を停止し、ガザ地区の封鎖を解除し、ガザ地区および西岸地区における入植をやめ、占領しているすべての土地をパレスチナに返還し、パレスチナ人に対するアパルトヘイトを撤廃する道義的義務があります。
死のうとも思ったけどやめた
ジェノサイドを未然に防ぐことは人道の最も基本的で最低限の要求のはずだがそれすらも叶わないこの世界の暗澹たる現状を目の前にすると死んだ方がましじゃないかという気持ちになる。認知行動療法の一環としてなぜそうなるのかを考えてみた。確かに自分が死ぬこととイスラエルによるジェノサイドの間には直接的な因果関係は何もない。自分が首を吊ったところでガザの上に降る爆弾が止むわけでもなければイスラエルによるパレスチナの占領と植民が終わるわけでもない。だから粉々になったガザの人々の身体を想像して自分が死にたくなるのはナンセンスである。
でも本当にそうなのか?日本はイスラエルに人道目的の一時的休戦を求めてはいるが国連の休戦決議案の採択では棄権した。アメリカを筆頭とする西側諸国と同じく基本的にはイスラエル支持の立場であると見て良いだろう。少なくとも建前上は民主主義国家に住んでいるのでこの外交姿勢の責任の一端は主権者であり有権者である私にあるしそれゆえに反対の声を挙げる義務がある。だが反対すると言っても次の国政選挙はいつになるか分からないしその頃にはもう手遅れだ、というか今すでに手遅れになっている。デモに行くのも良いがデモは意思表示でしかなく為政者を従わせる強制力はない。いっそのことジェノサイドに抗議するために自殺してしまった方が話題性があって良いのではないか。
それに、自分にはグローバル資本主義社会における消費者としてイスラエルによるパレスチナの占領に加担してきた責任もある。これまで食べてきたビッグマックや飲んできたスターバックスラテのために払ったお金は巡り巡ってイスラエルの暴虐を支えてきた。生きている限り消費せねばならずその消費が誰かを踏みつけることになるこのシステムに抗しそれから脱却するためには死ぬのも一つの手なのではないか。
死は確かに抗議の手段となりうる。ならば、生きること、今生きていることを正当化するには死ぬことよりも生きて抗議する方が良いことを示さなければならない。幸いにしてそれは不可能ではないと思う。
なぜならば、何よりも、自分一人が死ぬことが持つ抗議としての効果は限りなく小さいからである。家族や友達は悲しんでくれるだろうが、日本の外交政策には何の影響もないと思われる。遺書に「イスラエルによるジェノサイドに抗議するために死にます」と書いたところで、多分ニュースにはならないだろうし、なったとしてもヤフコメでバカにされるのが関の山だろう。結局自分の死にそこまでの戦略的価値はないのだ。
ただ、自分が死んだところで大した抗議にはならないからと言って、ただちに自分は生きていて良いことにはならないだろう。生きることを正当化するためには、生きて抗議することが死ぬことで抗議するよりも価値があることを証明しなければならない。そして有効に抗議することはこれまで見てきたように非常に困難である。
結局のところ、生きていて良いのか、それとも死んだ方が良いのかは分からない。ジェノサイドを止めるために何もできない自分なんて死んだ方がましなのではないかとは思うものの、死んだところであんまり意味はないので死なないでおこうとも思う。生きるための積極的な理由を見出すためには抗議し続けるしかないのだろう。でもその抗議が効果的な抗議でなければ生きていても死んでいても変わらないし、むしろ死んだ方がましなのだろう。だから文字通り死ぬ気で抗議する必要があるのだろう。
自分は生きたいと思う。でもガザの人々だって生きていたかっただろうし、ガザの人々が爆撃されて良い道理なんてどこにもないと思うし、ガザの人々が殺されているのにも関わらず平然と生きる権利など自分にはないと思う。これは仕方のないことではないし、これがこの世の現実なのだとしたら自分はそれを拒絶する。そして死によって拒絶することが無意味であるなら命をかけて拒絶しようと思う。