この世界の平和を本気で願ってるブログ

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死のうとも思ったけどやめた

ジェノサイドを未然に防ぐことは人道の最も基本的で最低限の要求のはずだがそれすらも叶わないこの世界の暗澹たる現状を目の前にすると死んだ方がましじゃないかという気持ちになる。認知行動療法の一環としてなぜそうなるのかを考えてみた。確かに自分が死ぬこととイスラエルによるジェノサイドの間には直接的な因果関係は何もない。自分が首を吊ったところでガザの上に降る爆弾が止むわけでもなければイスラエルによるパレスチナの占領と植民が終わるわけでもない。だから粉々になったガザの人々の身体を想像して自分が死にたくなるのはナンセンスである。

でも本当にそうなのか?日本はイスラエルに人道目的の一時的休戦を求めてはいるが国連の休戦決議案の採択では棄権した。アメリカを筆頭とする西側諸国と同じく基本的にはイスラエル支持の立場であると見て良いだろう。少なくとも建前上は民主主義国家に住んでいるのでこの外交姿勢の責任の一端は主権者であり有権者である私にあるしそれゆえに反対の声を挙げる義務がある。だが反対すると言っても次の国政選挙はいつになるか分からないしその頃にはもう手遅れだ、というか今すでに手遅れになっている。デモに行くのも良いがデモは意思表示でしかなく為政者を従わせる強制力はない。いっそのことジェノサイドに抗議するために自殺してしまった方が話題性があって良いのではないか。

それに、自分にはグローバル資本主義社会における消費者としてイスラエルによるパレスチナの占領に加担してきた責任もある。これまで食べてきたビッグマックや飲んできたスターバックスラテのために払ったお金は巡り巡ってイスラエルの暴虐を支えてきた。生きている限り消費せねばならずその消費が誰かを踏みつけることになるこのシステムに抗しそれから脱却するためには死ぬのも一つの手なのではないか。

死は確かに抗議の手段となりうる。ならば、生きること、今生きていることを正当化するには死ぬことよりも生きて抗議する方が良いことを示さなければならない。幸いにしてそれは不可能ではないと思う。

なぜならば、何よりも、自分一人が死ぬことが持つ抗議としての効果は限りなく小さいからである。家族や友達は悲しんでくれるだろうが、日本の外交政策には何の影響もないと思われる。遺書に「イスラエルによるジェノサイドに抗議するために死にます」と書いたところで、多分ニュースにはならないだろうし、なったとしてもヤフコメでバカにされるのが関の山だろう。結局自分の死にそこまでの戦略的価値はないのだ。

ただ、自分が死んだところで大した抗議にはならないからと言って、ただちに自分は生きていて良いことにはならないだろう。生きることを正当化するためには、生きて抗議することが死ぬことで抗議するよりも価値があることを証明しなければならない。そして有効に抗議することはこれまで見てきたように非常に困難である。

結局のところ、生きていて良いのか、それとも死んだ方が良いのかは分からない。ジェノサイドを止めるために何もできない自分なんて死んだ方がましなのではないかとは思うものの、死んだところであんまり意味はないので死なないでおこうとも思う。生きるための積極的な理由を見出すためには抗議し続けるしかないのだろう。でもその抗議が効果的な抗議でなければ生きていても死んでいても変わらないし、むしろ死んだ方がましなのだろう。だから文字通り死ぬ気で抗議する必要があるのだろう。

自分は生きたいと思う。でもガザの人々だって生きていたかっただろうし、ガザの人々が爆撃されて良い道理なんてどこにもないと思うし、ガザの人々が殺されているのにも関わらず平然と生きる権利など自分にはないと思う。これは仕方のないことではないし、これがこの世の現実なのだとしたら自分はそれを拒絶する。そして死によって拒絶することが無意味であるなら命をかけて拒絶しようと思う。