この世界の平和を本気で願ってるブログ

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翻訳家になります。ならせてください!

仕事は結構つまんない、けど辞めたらお金のことが心配、なんなら今でももっとお金欲しい、そんな時は副業をした方がいいらしい。そして何かを始める時は「自分のやりたいこと」「自分のできること」「世の中から求められていること」のベン図を書いて真ん中に来たものをやるといいって稼いでそうな人が言ってたのでやってみた。

「自分のやりたいこと」

→なんか文化的なこと

「自分のできること」

→英語

「世の中から求められていること」

→え〜分かんない。経済システムの根本的な見直しは不可欠だと思うけど、、、

ということで三つ目の円だけクソデカくなってしまいましたがとにかく英語を使って何か文化的なことがしたいということが分かった。そこで私は大学生の時友達の卒業論文の英文抄訳を代わりに作成して小銭を稼いでいたことを思い出した。これなら自分も楽しくできるし人の役に立ってる感もあっていいなと思ったので翻訳家を目指すことにした。

それにあたり、まず自分の実力を知りたいと思い、文芸翻訳検定なる試験を受けることにした。職業翻訳家向けの時間は他にも色々あったが、自分のやりたいジャンルに一番近いと思って選んだ。1級に合格するとプロレベルの英日翻訳者として認められるとの触れ込みだったが、初めて受ける場合は2級からしか受けられなかったので、昨年の6月くらいに2級を受けて無事合格し、1級への挑戦権をゲトった。

1級の問題はめちゃ面白くて、長文(3000単語くらいだったかな)の英文翻訳と、2000〜3000じの和文の短編小説の二つの課題を3日間かけてやってくださいというものだった。長文の英文翻訳は自分的にはサクサクできたが、短編小説の方はストーリーのライティングの経験があまりにも無さすぎてクッソ苦労した(でも文芸翻訳やるならできて当然ですよね、、、これからがんばります)。ところが試験の結果とともに届いた講評を読むと短編小説のほうが評価が高く、長文翻訳は細かいミスが目立っていた。嬉しいやら悲しいやら、、、

で、肝心の結果は1級B合格だった。どういうことかというと、1級にはA合格とB合格の2種類があって、A合格は文句なしのプロレベル、B合格はもう一歩ということらしい。悔しいけどそれでも合格は合格なのでひとまず良かったと思っている。そして文芸翻訳検定協会の方々がまじでマブいのでB合格にも関わらず自分の名前をウェブサイトの認定翻訳家一覧に載せていただいた。うれぴ〜

https://bungeihonyaku.com/tourokusya.html

というわけでプロレベルには一歩及ばないものの頑張ってる翻訳家に仕事を頼みたい人がいたらどなたでもご連絡ください。ビジネスでも小説でも詩でも取扱説明書とかでもなんでも頑張ります。日→英、英→日どっちもいけます。文芸翻訳検定の方もまた今年の5月にあるそうなので今度はA合格してえ

 

あけましておめでとうございます!最初に言え

遠くには四匹の犬

Silver JewsのThe Wild Kindnessという曲がある。晩秋にぴったりの曲だと思うので、もっと多くの人に聴いてほしい。そしてSilver Jewsのことももっと知ってほしい。

 

Silver Jews - The Wild Kindness - YouTube

 

Silver Jewsの作詞作曲を行っていたのはデイビッド・バーマンという人だった。バーマンがバンドを始めた理由は、父親との確執だった。

父親のリチャード・バーマンはアメリカで有数のPR活動家・ロビイストで、飲食業界を中心とする大企業の利益を守るために、市民と労働者の主張・運動を不当に貶めることを生業とする人物だ。彼の手がけたメディア・キャンペーンには、最低賃金の引き上げ反対や、飲酒運転の厳罰化への反対、また労働組合へのネガティブキャンペーン等がある。そんな父親が世界に対して与えた損害を少しでも回復できるように、とバーマンが結成したのがSilver Jewsというバンドだ。

では果たしてその試みはどうなったのか。Silver Jewsは知る人ぞ知るとても良いバンドだったものの、決して有名になることもないまま、とうの昔に解散した。バーマン本人はその後、鬱病に苛まれながらも活動していたが、一昨年に自殺してしまった。一方で、バーマンの父親は今も健在で、様々な労働組合や運動体への攻撃を続けている。表面的な事実だけを見れば、結果は散々である。

それでも私は、Silver Jewsとデイビッド・バーマンは奇跡をやってのけたのだと思う。まず、バーマンがアーティストになったこと自体が驚くべきことだろう。彼も父親のように、巨大な利権にひたすら擦り寄る人になっていてもおかしくはなかった。なんなら、そのほうが本人も長生きできただろうし、より多くの富と名声を得ることができただろう。それでもバーマンが弾圧と搾取ではなく創作の道を選んだことは奇跡だと言える。ましてそこで才能を開花させるなど、限りなく不可能に近い所業だと思う。それをバーマンはやってのけたのだ。

何より、バーマンの残した功績は、父親の仕事とは比べられないほど尊いものだ。バーマンの創った作品は彼の死後も輝きを失っていないし、これからも多くの人々に喜びをもたらすだろう。でもバーマンの父親の仕事は何も生み出さず、ただ壊し、奪うだけだ。彼が死んだ後残るのは、息子に相続されることのない遺産と、彼が傷つけてきた人々の膨大な痛みだけである。

もちろん、その痛みの総量に比べればバーマンの業績は小さい。しかし、どんなに小さいものであれ、誰かに喜びをもたらした時点で、バーマンの仕事は父親のそれよりもよっぽど価値がある。バーマンがそのことをもっとちゃんと分かっていたならば、死ななくても済んだかもしれない、と思う。

芸術は尊い、ということにあぐらをかいて、社会と政治に背を向けて生きることは醜い。だからといって、今の社会と政治のおぞましさに絶望するあまり、創ることどころか、存在すること自体をやめてしまっても、多くの悲しみを残すだけだと思う。生産せよ、消費せよ、資本家の利潤のために貢献せよとせっつかれる今の世において、あくまで感情を動かす何かを創るために活動すること自体、ある種の反抗になり得ると信じている。

バーマンは決してパンクスではなかったけど、やはりこの意味では反抗者だったと思う。だから自分もバーマンに救われた一人として、何らかの形でバーマンの営みを引き継ぎたいと思う。自分と自分の大切な人たちが生きるこの社会を少しでも良くするために、そしてバーマンの無念を晴らすために。

The Wild Kindnessの歌詞には、バーマンの抱えた生きづらさ、やけくそのユーモア、そしてくたびれた優しさが良く表れていると思う。日本語に訳すことで、その大部分は失われてしまう。それでもバーマンの詞が持つ美しさがほんの一部分でも残り、読んだ人がそこから詞の本来の姿を想起できればと思い、ダメ元で日本語を充ててみた。よかったら読んでみてください。

 

The Wild Kindness

 

I wrote a letter to a wildflower
on a classic nitrogen afternoon
Some power that hardly looked like power
said, "I'm perfect in an empty room"

野花に向けて手紙を書いた

典型的な窒素の午後に

力に到底見えないような何かの力が

「おれは空っぽの部屋に完璧だ」と言った

 

Four dogs in the distance
each stands for a kindness
Bluebirds lodged in an evergreen altar...
I'm gonna shine out in the wild silence
and spurn the sin of giving in

遠くには四匹の犬

それぞれあるやさしさを表している

常葉の祭壇に埋もれたルリツグミ

僕は野生の静けさの中で輝きを放って

諦めという罪を突っぱねよう

 

Oil paintings of x-rated picnics
Behind the walls of medication I'm free
Every leaf in a compact mirror
hits a target that we can't see

X指定のピクニックを描いた油絵

薬の壁の裏で、僕は自由だ

サイドミラーに映る全ての木の葉は

自分たちには見えない的に命中する

 

Grass grows in the icebox
The year ends in the next room
It is autumn and my camouflage is dying
instead of time there will be lateness
and let forever be delayed

クーラーボックスには芝生が生え

一年は隣の部屋で終わる

今は秋 僕の擬態は死にゆく

時間の代わりに間に合わなさが来るだろう

そして永遠は遅延させておこう

 

I dyed my hair in a motel void

met the coroner at the Dreamgate Frontier
He took my hand and said "I'll help you boy
if you really want to disappear"

モーテルの虚空で髪を染めて

夢の門の辺境で検視官と会った

彼は僕の手を取り言った「助けてやろう、坊主

本当に消えたいのならな」

 

Four dogs in the distance
each stands for a silence
Bluebirds lodged in an evergreen altar...
I'm gonna shine out in the wild kindness
and hold the world to its word

遠くには四匹の犬

それぞれあるやさしさを表している

常葉の祭壇に埋もれたルリツグミ

僕は野生のやさしさの中で輝きを放って

世界に約束を守らせよう

働きたくない

本当に会社で働きたくない。転職して改めてそう思った。

前の会社を辞めた時は、労働時間が長すぎるとか、仕事がつまらな過ぎるとか、同じプロジェクトのSさんという悪辣な先輩が嫌すぎるとか、そういった「その職場特有の要因」が自分を苦しめているのだと考えていた。

今年の1月に転職して、今の会社で働いて9ヶ月ほどになる。1日の労働時間はきっかり8時間で、残業することは全くない。仕事は楽しいと言うほどではないが、以前の業務よりかは興味が湧く。同僚に嫌なやつは今のところ全くいない。まさに100点満点の転職だ。

しかし、それでも自分は「IT'S SO BEAUTIFUL! EVERYDAY」(モーニング娘。「春 ビューティフル エブリデイ」、2007年)とは言えない。転職したとて、自分がやることと言えば結局平日の勤務を淡々とこなして、週末遊んだりダラダラしたら、また次の週もこなすだけだ。

それで充分だ、贅沢を言うな、とおっしゃるのなら、考えてみて欲しい。一日8時間、週5日働く生活で、手元にどれくらいの時間が残るのだろうか。

計算してみよう。一週間を時間に換算すると168時間。睡眠は一日8時間取っているので、起きている時間は一週間で112時間となる。

だが、起きている時間=自由に活動できる時間ではない。人らしく生活する以上、家事労働に時間を割かなければならない。まず、朝昼晩の食事とその準備および後片付けに一日あたり3時間くらいかかるので、一週間だとそれだけで21時間にもなる。それから、衣服の洗濯と掃除も、きわめてずぼらな私ですら週あたりで3時間程度行なっている。以上の家事労働時間を合計すると24時間、ちょうど一日分となる。つまり、起きている時間のうち、真に自由に活動できる時間は112-24で88時間となる。

この88時間のうち40時間分、私は働いている。ということは、手元に48時間分しか残らない。一週間=168時間のうち、私が生命と生活を維持するためでもなく、賃金を得るためでもなく、誰かの指示を受けず、自分と自分の大切にしていることのために自由に使える時間が、48時間しか残らない。七日間のうちたったの二日間分しか残らない。それも二日間まとまった形ではなく、平日の労働を終えた後の切れ端のような数時間と、前の週の疲れを癒やし、かつ次の週に備えるにはあまりにも短い土日の二日間という形でしか残らないのである。

それでも相対的に恵まれているのは分かっている。一日8時間の労働で済む職場などこの国になかなかないことは、私の知り合いを観測するだけでも分かる。だがそれは私が贅沢なのではなく、もっと労働時間が長い人たちがより不幸なだけではないのか。

私はもう働きたくない。なぜなら人生には限りがあって、私はそれをできるだけ楽しく過ごしたいからだ。そして、会社員の仕事は圧倒的に楽しくない。楽しむ工夫をしたとて本当に楽しくなるわけではなく、せいぜいつまらなさが少々マシになるくらいだ。私はそんなことに自分の自由な時間の半分も使いたくない。

私はもっと自分の好きなことをして生きていきたい。物を読んだり、書いたり、考えたりしたりして生きていきたい。パートナーともっと楽しいことをしたい。友達にもっと会いたい。新譜をもっと聞きたい。ハロプロを追い続けていきたい。マジック・ザ・ギャザリングに最近ハマったのでそれも頑張りたい。ギターをもうちょっとちゃんと弾けるようになりたい。あわよくばバンドがしたい。だから40時間働いている暇など私にはないのだ。

私は自分の好きなことを諦めたくない。私は自分の人生を生きることを諦めたくない。そのためには週40時間働いて生活に必要なお金を手に入れている状況を変えなければならない。より少ない時間で同等のお金を手に入れる方法を考えなければならない。あるいは好きなことを収入に繋げる方法を考えなければならない。究極的には働かなくても好きなように生きていける世の中の実現に向けてできることをしなければならない。

そう言いつつも私はまだ何も出来ていない。私は嫌だ嫌だと言いつつ結局週40時間働き続けているし、48時間の自由時間でもその状況を変えるために動けていない。なので私はここで決意を表明する。私は働くことを良しとしない。働かなければ生きていけないこの社会を良しとしない。好きなことをして生きていくための方法を探していく。そしてより多くの人が好きなことをして生きていける社会の実現に向けて思考し実践する。以上のことをテーマに当面は生きていく。

 

 

高木紗友希さんのグループ活動休止に関する、アップフロントプロモーション代表取締役西口猛さんへの公開書簡

初めまして。貴事務所の所属アイドルの処遇について疑問があり、この度公開書簡という形でお問い合わせさせていただきます。

 

高木紗友希のJuice=Juice脱退の理由について、西口さんは下記のように書いています。

 

ハロー!プロジェクトのメンバーとして、自覚を欠いていると総合的に判断し、
今回の結論に至りました」

 

「自覚を欠いている」のはどういうことか、というのは具体的には書かれておりませんが、状況を鑑みるに、次のように文意が推察されます。すなわち、高木さんはハロー!プロジェクトに所属するアイドルでありながら、恋人を持ち、半同棲の状態にあったので、同メンバーとして「自覚を欠いている」という意味でしょう。

 

確かに、日本の世間一般のアイドル像から言えば、アイドルが恋愛をすることはご法度です。その観点においては、今回の西口さんの対応は常識的なものです。

 

しかし、あることが常識にかなっていることは、それが正しいことを必ずしも意味しません。むしろ、正しいことをなすためには、時には常識を疑い、それに逆らわなくてはなりません。まさに今がそのときなのではないでしょうか。

 

高木紗友希さんがJuice=Juiceを辞めるという対応は、アイドルは恋愛してはならないというルールは、果たして正しいのでしょうか?

 

そもそもアイドルが恋愛をすることのどこが問題なのでしょうか。アイドル(商品)とファン(消費者)が疑似恋愛的な関係で結ばれており、アイドルがプライベートで恋愛することによってその関係が崩れるという前提が成立するのであれば、商品の価値を維持するために事務所(店主)アイドルの恋愛を禁ずることの経済的合理性は理解できます。

 

しかし、西口さんも良くご存知だと思いますが、現実に生きているアイドルとファンの関係性はより複雑で多様です。アイドルとファンの関係性は、疑似恋愛以外にも、疑似親子、神と信者、選手と応援団等、様々な様式を取ります。アイドルのプライベートの自由恋愛によってその全てが崩壊し、ファンが去っていくかと言えば、そうはならないでしょう。

 

アイドルが恋愛することがファンに全く影響を与えないとは言いません。それを快く思わない人もいれば、喜ぶ人もいるし、全く意に介さない人もいると思います。

 

ただ、その程度のファンの反応は、別に恋愛ゴシップでなくとも、例えばハロコンの編成や、グループ新体制発表や、メンバーの髪型の変更等、アイドルの「通常業務」で起こりうる範疇のものではないでしょうか。そうであれば、殊更自由恋愛による顧客への影響を重く見て、自由恋愛を禁止するというのは、いささかナンセンスなのではないでしょうか。

 

それでも恋愛禁止のルールを維持しなければならないと西口さんが考えるのであれば、それは合理性の枠を超えた伝統的・文化的・情緒的な理由であると言わざるを得ません。夢を売るアイドルはその裏側(プライベート)を見せてはいけないという不文律。これまで恋愛禁止でやってきたアイドル達に示しがつかなくなるという先例主義。恋愛はパフォーマンスの研鑽の妨げになるという精神論。「恋愛禁止ルール」は説得的で透明性のある制度というよりは、こうした慣習的な決まり事が無言の圧力となって結晶化したものなのではないでしょうか。

 

むろん、慣習だからといって簡単に打ち捨てられるものとは思いません。しかし、西口さんはそうした慣習を守るために、高木紗友希さんのキャリアと人生を大きく狂わせています。「恋愛禁止」という決まり事と、高木紗友希さんという人間のどちらを守るべきか、答えは明白ではないでしょうか。

 

これも西口さんはよくご存知のはずだと思いますが、高木紗友希さんは現役ハロプロメンバーの中でもトップレベルのキャリアの長さを誇ります。ハロプロエッグ時代から弛まぬ努力を積み重ね、錚々たる面々の中から研修生ユニットのメンバー入りを勝ち取り、Juice=Juiceとしてデビューしてからもレベルアップを続け、今や押しも押されぬ実力者としてハロー!プロジェクトに君臨しています。高木さんの圧倒的なスキルとパフォーマンス、それを作り上げてきた努力、そして何よりその努力に捧げた11年という年月が、彼女のアイドルという職業への「自覚」を物語っています。

 

そんな高木さんのこれまでを一蹴し、恋愛禁止ルールの名の下に「自覚がない」と断罪することは、彼女の生き様に対する侮辱です。同時にそれは過去の、現在の、そして未来のハロプロメンバーのパフォーマンスへの思いに対する侮辱です。なぜなら、それは所属アイドルに対して、「この先どんなに優れたパフォーマーになろうが、恋愛をした瞬間に君たちは無価値になる」と宣言していることに他ならないからです。

 

私はハロー!プロジェクトのメンバーのパフォーマンスが大好きです。彼女たちが歌う歌が大好きです。アイドルという多くの枷を負わされた存在でありながら、自由を称揚し、力強く歌い踊る姿が大好きです。

 

私はアイドルという産業に多くの疑問を抱きつつも、所属アイドルを応援したいという気持ちと、「ハロプロなら所属アイドルを大切に扱っているだろう」という期待から、アップフロントプロモーションの活動を見守ってきました。

 

しかし、恋愛禁止ルールを理由に、高木さんを突然グループから脱退させるという処分は、アップフロントに対する私の信頼を不可逆的に損なうものです。むしろ私はこの処分にこそ裏切られたと感じています。同様に思っているハロプロファンも少なくないのではないか、と定かではないものの思っています。

 

今回の件に関して、「守るべきは高木個人よりもハロー全体」という声を見かけました。西口さんももしかするとこのような考えの下で処分を下されたのかもしれません。しかし一ファンとして申し上げるならば、私は「メンバー一人一人を大切にするハロー!プロジェクト」を応援していたのであり、今回の処分はその哲学と真っ向から反するものとしか思えません。

 

ハロプロメンバーが大好きなファンのためを思うのであれば。ハロプロを成立させているメンバーの努力を思うのであれば。そして何よりハロプロに半生を捧げた高木紗友希さんを思うのであれば。今回の謝罪文を撤回してください。また、高木さん本人がそれを望むのであれば、Juice=Juiceのメンバーとして活動を継続することを認めてください。そして、時代遅れで誰も幸せにしない恋愛禁止ルールを撤廃してください。

 

 

AI美空ひばりの次は尾崎ロボ彦に香水歌わせるしかないでしょ

今年の紅白がめちゃくちゃつまんなかったのはずばり去年のAI美空ひばりゾンビ召喚コーナーが無かったからだと思います。あのコーナーは毎年続いても良いくらい面白かったですが、今年はさすがに倫理的にアウトだと判断されたんですかね(それでやめるくらいなら普通に最初からやめとけよって思いますよね〜)。

 

美空ひばりを「復活」させたのは確かに本人ひいてはあらゆる死者に対する冒涜です。しかしエンタメ的にもっと許されないのはその冒涜を「美空ひばりを偲んでほにゃほにゃ」とか「AIの可能性をほにゃほにゃ」とかいうクソどうでもいい理由で正当化して美談にしようとしたところです。

 

倫理的に救いようのない行為を正当化しようとしたところで無駄です。それでもどうしてもやるというのならせめて徹底的に露悪的に、悪趣味の限りを尽くして行うべきだったのです 。せっかく美空ひばりを意のままに操作できるのであれば、本人の曲だけじゃなくていろんな人の歌を歌わせるしかないでしょう。一昨年の紅白で言えば、「シンクロニシティ」「紅蓮花」「花火」「純烈のハッピーバースデー」とか見たかったなあと思います。

 

しかし毎年美空ひばりに早すぎた埋葬使うのはもったいないですよね。せっかく墓地リソースが沢山あるならもっといろんなモンスターを蘇生すべきです。私がNHKのえらい人になって次のアンデッドボカロ枠を選定できるなら、迷わずこの人にするだろうという人が一人います。そう、尾崎紀世彦です。

 

 

正直私はこの「また逢う日まで」しか尾崎さんの曲は知りません。でもこれだけで上手すぎて笑えてきますね。歌詞の悲しさをものともしない圧倒的な声量が爽やかさすら感じさせます。これを蘇らせずしてどうしろというのでしょう。

 

また、尾崎紀世彦美空ひばりも歌うま超人ですが、しかし前者には後者にない長所があります。それは生前他の人のいろんな曲をカバーしていて、しかもどれもめちゃくちゃ面白いという点です。

 

私が一番好きなのは、少し前にTikTokでちょっとバズったこちらの映像です。

 

 

やばすぎませんか?初っ端からめちゃくちゃ面白いですよね。しかも何度聞いても新しい発見があります。私は最近「陽の当たる坂道を昇るその前に〜」の最後の「に〜」にハマってます。

 

他にもこんな曲もカバーしてたりします。

 

 

「幼い微熱の〜」の声量が微熱どころではなくてツボです。しかし中山秀征がウザいのでマイナス2億点です。

 

あと個人的にウケたのがこれです。

 

 

そもそも原曲がウケるのでこの声で歌われたら面白いに決まっています。マルシアさんも昭和のチープなエロを表現していていいですね。

 

このように、生前の尾崎紀世彦さんは割と節操なくいろんな曲をカバーしていて、どれも見事に自分の曲にしてしまっています。尾崎さんは惜しくも2012年に亡くなってしまいましたが、その声は墓地に置いておくにはあまりにも勿体なさすぎます。

 

AI美空ひばりで善悪の境界線を踏み越えた今のNHKであれば、尾崎ロボ彦を操って近年のヒット曲を片っ端から蹂躙できるはずです。そして2020年最大のヒット曲であるあの曲こそ、尾崎紀世彦さんにぜひともカバーしてほしかったと思いませんか???

 

 

もうこうなったら今年の紅白でも良いです。NHKさん、お願いです。尾崎ロボ彦に香水を歌わせてください。それは確かに死者への冒涜です。しかし、生きている私たちの糧として、死者を消費するような表象は、何もAI美空ひばりに始まったことではなく、日本、ひいてはあらゆる近代国家のお家芸です。ならばせめて、国民統合と、国家の無謬性を保持するための歴史の改竄というクソどうでもいい「大義」のためではなく、ただ単に尾崎紀世彦が香水を歌うのを聴きたいという欲望を満たすために、その技術と資源を動員してください。

 

 

 

 

 

別に今の日本のポップスを好きになることはないけどそれは「香水」のせいではないよ

いい曲とは何でしょうか。落合博満によれば、バッティングにダメなフォームはあっても正解のフォームはないそうです。曲にも似たようなことが言えるのではないでしょうか。

 

ポップスには、「この型を押さえておけば名曲になる」というものは存在しないように思います。だけど同時に「ああこの曲はダメだ」と一瞬にして思えてしまうようなメロディラインや歌詞、アレンジは確かに存在します。例えば、

 

ドラムがドッチー

 

緑黄色社会 - Mela

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メロディーが陳腐

 

Mrs. GREEN APPLE - 青と夏

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歌詞が多い上にイタい

 

My Hair Is Bad - 真赤

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などが比較的記憶に新しく、かつそれぞれのダメ類型の代表作と言えるかなと思います。

 

以上のことから、いい曲を作ろうと思ったらとりあえず上のような落とし穴に引っかからないことが絶対条件になります。

 

そのような見方でいくと、瑛人の「香水」って実はまあまあいい曲なのではないでしょうか、という話です。

 

瑛人 - 香水

youtu.be

 

「香水」がどうやってダメな曲の落とし穴を回避しているか、順に見ていきましょう。

 

落とし穴1「ドラムがドッチー」

ドラムを入れないことで回避

 

そもそもバッキングをアコギ一本にするならドッチーの入り込む余地はありません。単純なことではありますが、この時点であまりにも多くの日本のバンドよりもセンスが良いと言えます。潔い選択です。

 

落とし穴2「メロディーが陳腐」

陳腐すぎて逆に王道感が出てるのでセーフ

 

陳腐なメロディーラインには、言い換えれば使い古されてきたという実績があります。そしてそれはそのメロディーに人を惹きつける力があるということの証左です。つまり陳腐と王道は紙一重なのです。瑛人は変にオリジナリティを出そうとせず、陳腐に徹することで「香水」のメロディーラインを王道感のあるものに仕上げています。

 

落とし穴3:歌詞が多い上にイタい

特に大したことを言わないことで回避

 

イタさの主な要因は、だいたい「ちょっといいこと言ってやろう」という背伸びにあります。「香水」にはそうした背伸びはありません。「香水」で語られるのはクズ男のしょうもない感傷、ただそれだけです。

 

この曲の歌詞の強みは、まさにこのクズ男という主題がブレないという点にあります。クズ男の感傷から何らかの普遍的なテーゼを無理やり引っ張り出したり、逆に瑛人個人の世界観や恋愛観を独白したりするわけでもなく、ただただ自分の不誠実さと劣情を人の香水のせいにするクズの話をするところが、「香水」が広く受け入れられている所以です。

 

以上、瑛人が「香水」を作る上で実は多くのアーティストがハマりがちな落とし穴を巧みにかわしていることを見てきました。この点を持って、「香水」はダメな曲で溢れている現代日本のポップスで相対的に「いい曲」と言えるでしょう。

 

最後に、「香水」が「いい曲」であるということが日本のポピュラー音楽の現在にとって何を意味するのか、少し考察します。

 

「香水」ブームが世の中的にピークであった今年の夏頃に、「「香水」は単純で工夫がないのでダメだ」という旨のツイートがTwitterで少し話題になりました。ここまで読んでいただいたなら分かると思いますが、この批判は見事なまでに的外れであると言わざるを得ません。

 

確かに「香水」はメロディーもコードもアレンジも歌詞もシンプルで、技巧や独自性は特にありません。しかし同時に「香水」は上で見てきたように世で流行っている他のバンドの曲よりもはるかにダサくありません。むしろ、無駄でセンスのない工夫をしている他のバンドの曲と違って、自分のセンスと力量をわきまえ、単純であることによってそれなりの曲に仕上がっています。

 

「香水」は名曲などではありません。葬式で「香水」を流したいとか言ってる人がいたら人類学の研究対象にすべきです。しかし「香水」は決して駄曲でもありません。100点満点でいうなら65点くらいの曲です。人口1億2000万人の日本という国で、世界でも有数のポピュラー音楽市場において、この65点くらいの曲を遥かに下回るようなクオリティの曲が溢れているという事実は、何よりもこの国の衰退を象徴するものです。

 

日本のポピュラー音楽は岐路に立たされています。よりドッチーに、よりメロを陳腐に、より収まりの悪くてイタい歌詞に、という方向に進むのか、それとも「香水」の教訓を活かし、方向性を間違えた工夫や技巧を廃し、今一度基礎からポピュラー音楽を捉え直すのか。どちらに進むのかは分かりません。ただ、音楽がそれなりに好きな人間として、世の中に「Mela!」のような曲が増えるより、「香水」のような曲が増えたほうがよっぽど良いだろう、とは確信を持って言うことができます。

 

ちなみに、劔樹人さんの二番煎じにはなりますが、メロン記念日の「香水」はガチの名曲です。

 

 メロン記念日 - 香水

youtu.be

 

労働からの逃走/労働に対する闘争

最近仕事しなさすぎてやばいです。リモート勤務のありとあらゆる誘惑に負けています。ずっと怠けてるわけじゃないんですが、良くて一日のうち三時間くらいしかまじめに働いてないですね。残りはアプリで麻雀やったりポケモン剣盾のインターネット大会に向けてパーティ調整したりエーペックスレジェンズですぐ死んだりしてます。さすがに私でもこのままでは良くないと思ってます。なので少しでもこの状況を打破すべく一ヶ月半ぶりくらいにブログを書いています。

 

出だしでやばいとか言いましたが、お察しの通り私は今自分が全然仕事してないことにあまり危機感を持ってはいません。宇宙の歴史からみれば私たち人間の生涯はあまりにも短く、その中の時間を仕事に使ってもボーマンダの素早さ調整に使っても正直何がどうなるというわけではありません。また人類史的な視点から見ても私の(そしておそらくはあなたの)従事している仕事は、基本的人権の人類全体への敷衍や気候変動への対策といった実存的危機の解決に何ら寄与するものではありません。

 

強いて言えば私とみなさんの仕事は「今ある世の中を回していく」ことに貢献しているという点では一定の意義があるかもしれません。確かに今ある世の中が存在しうる世の中の中で最も悪いものかと言われれば違うと思いますし(現に私はこうして仕事もそこそこにサンダーの性格はおくびょうがいいかひかえめがいいかなんて考えながらまあまあいい生活を送れていますしね)、それが崩壊しないように維持していくことは確かに大事です。

 

でもじゃあ実際のところ誰が世の中回してんねんと問われれば、それは決して私と私の同業者ではないです。まじで世のインフラを担ってくれてるのは、ゴミ収集車の人だったり、農家さんだったり、スーパーのレジ係さんだったり、コンビニの店員さんだったり、要は昨今のコロナ禍でエッセンシャルワーカーとかいってもてはやされた割に特に何の援助も立場の向上も得られなかった方々です。私とか私みたいな人たちが回しているのは、せいぜい企業がお金をあるところから別のところへと動かして泡銭を得るという仕組みだけです。

 

その仕組みが巡り巡って世の中を回してんだよという見方をする人もいると思います。でも実際それで世の中良くなってんのかというと、あんまり良くなってないんじゃないですかね。世界でも日本でも貧富の差は縮まらないし、日々の暮らしが良くなってるという実感も特にありません。あと自然科学に明るい人によればもうちょっとで人類ここ住めなくなるらしいじゃないですか。自分たちの活動のせいで。そして元を辿ればそれはどんどん資源使ってどんどんもの作ってどんどん売って稼ぐぞーという仕組みのせいですよね。そんな仕組みを続けることに意味など感じませんし、それを仕事を通して回すことに誇りなど持てません。

 

しかしながら私は一人でこの仕組みをぶっ壊せるほど根性もないし、仲間を率いて革命を起こせるほどカリスマもありません。そして人間である以上ものを食べないと死にますし、現状金がないと食べ物を手に入れられませんし、働かないと金がなくなるので仕事はしておきたいです。

 

ならばやることは一つです。形式的には会社員やりながら、ひたすらサボる。これしかありません。

 

サボることは社会的に(すなわち社会的なるものが企業的なるものと限りなく重複している今の日本においては企業的に)悪とされています。だからこそ人類を愛し世界の安寧を願う人はサボるべきなのです。資本とその法人格である企業の世界に対する際限ない侵食に対して、私でもあなたでも誰でも一人でできる確実な抵抗が、サボるという行為なのです。

 

サボるという言葉はフランス語のsabotageから由来しており、これは元々労働争議を指すための言葉でした。そして、争議の際に労働者たちがストライキを実行して仕事を放棄したり、あるいは業務を意図的に間違えて会社をめちゃくちゃにしたりする様子から、英語のsabotage、すなわち破壊的な工作という言葉が生まれました。このように、サボるという行為は労働からの逃走であると同時に、その語源からして闘争的な性格を持つのです。

 

むろんsabotageとサボることには距離があります。sabotageは明確な政治的目的のために(ほとんどの場合は)組織的な計画に基づいて行われますが、サボるのは自分のために一人で勝手にやるものです。しかし資本に対する抵抗という意味では両者は確かに同様の性格を持ちます。そしてストライキ等を通して労働条件が向上するのは長い時間がかかりますが、サボってしまえばワークライフバランスは即座に改善されます。資本に対抗する手段として、仕事をサボることほど実践的な行為はないでしょう。

 

何より、サボることによって手に入れた時間(この表現もおかしいですよね、元々自分の時間を会社に売っていただけなのに)は自分だけのもので、自分の好きなように使うことができます。自分の人生を楽しむために使うことができます。

 

むろん先述のように膨大な宇宙の歴史から見れば塵にも満たない自分の人生ですが、それでもせっかく生まれてきたからには楽しいことをたくさんしたいですよね。死ぬ前に見たいYouTubeの動画、読みたい漫画、聴きたい曲。どれも数えきれません。それを毎日9時-17時の間我慢しながら生きるか、それとも仕事に使う時間を削るか。これまでの話を踏まえれば、答えは明らかではないでしょうか。

 

サボることは労働からの逃走であるとともに労働に対する闘争です。それは資本への抵抗である以上人類史的に正しい方向への一歩であるとともに、何より自分自身のためになる行為です。この文章を読んで、明日からサボろうと思えた人が一人でもいたならば、私はとても幸せです。

 

そして、もしも「じゃあ仕事サボって何するの?」と聞かれたら、私はこう答えます。

 

ハロプロ聴こうよ。

 

https://youtu.be/njCe2i91kWo